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最近の「ミニマルフォト」は「アンチ・ミニマルフォト」である

最近、「雲のない空に何か一つだけ主題を配して撮る」とか「壁や建築物をきわめて平面的に撮る」とか「幾何学的なアプローチで画面を整理して撮る」とかいったことをひっくるめて「ミニマルフォト」と言う人が多いと思う。

しかし、「見栄えのよい写真」のための「ミニマリズム」は、ある意味で装飾のためにミニマリズムのテクニックを使っているのであって、「装飾を遠ざける」ミニマリズムの本質から離れた行いではないか?

画面をミニマルにすること自体が目的になると、それは装飾のスタイルとしての「ミニマリズムらしきモノ」にすぎなくて、きちんと向き合おうとするのならミニマリズムという姿勢によって得られるものを明らかにしないといけない。
たとえばそれは写真が写真として成り立つ最小限の要件を探ることで、逆説的に「これさえあれば写真なのだ」というエッセンシャルなものを見つけることかもしれない。

写真そのものに対する態度としてのミニマリズムか、写真を通して世界を見つめる態度としてのミニマリズムか?
いずれにせよ「構図を整える」以上のことを言わなければならない。

シンプルな構図が好きとか、幾何学的な捉え方をするのが好きとかそれ自体は良い視点であって、日常の中にあって見過ごされがちな美を発見する素晴らしいことであるが、そこに安易に「ミニマリズム」とか「ミニマル」とかいう言葉を当てはめてしまうから作品に脆さが生まれてしまう。

言ってしまえば「色がかわいい」などというのは装飾的な話であって、ミニマリズムの姿勢からすれば真っ先に排除されるようなものであるのに、近々見かける「ミニマルフォト」の目的は「かわいい配色」になってすらいる。ことごとく「アンチ・ミニマリズム」な行いである。

さらには余計な文脈を付加してしまうという意味でも、やはり本質的な「ミニマリズム」から離れた行いである。

アンチの姿勢を取る覚悟がないのであれば、潔く「シンプルフォト」とでも言ったほうがいいのではないか?

とにかく、何かのイズムを表面的に使ってしまうということはとても失礼なことだと、自覚くらいはした方がいい。

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追記
「ミニマルフォト」の事例として、2018年度の写真新世紀におけるグランプリ、ソン・ニアン・アン氏のプレゼンテーションは一読の価値がある。
是非読んでみてほしい。

https://global.canon/ja/newcosmos/closeup/exhibition-report-2018/song-nian-ang/index.html

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