令和いらねえ釣りはホットケーキ ver.2/2024年3月11日



2024年3月11日。13年前の今日(現地時間では10日の夜)はシアトルにいた。今年の3月11日はニューヨークにいて、地震が起きた時間は日付が変わって11日になったばかりの真夜中。黙祷してました、と言いたいとこだが。寝落ちしていた。でも珍しく熟睡できず、夜が明けても疲れが残っていた。締切の催促も届いていて、午前中はその時間に充てるつもりだったが、朝食後に猛烈な眠気に襲われ、結局倒れ込むように寝た。これは3・11の影響ではなく、典型的な時差ぼけの症状。これはもう仕事や外出はあきらめて、体に必要な睡眠をとるしかない。そういう年齢。それでも午後には這うようにしてなんとか起き上がった。出かけなくちゃ。今回泊まっている宿はブルックリンなので、マンハッタン内によく宿泊していたコロナ前とはいろいろ移動の経路が違う。マンハッタンのなかはメトロでだいたいカバーできるようになっているし、Uberが登場してからは近距離移動でもホイホイと乗っていた。この物価高になってからはUber移動もなるべく控えめにしたい。なので結構バスに乗る。以前は行きずりの観光客にとってバスは難題そのものだったが、最近のナビソフトの優秀さにより恐怖感はなくなった。安価だし、うまく乗り換えていけば到着地まで最短アクセスできる(時間は最短にはほど遠いけど)。あとは、重くて場所とる荷物(買ったレコードとか)さえなければねえ。

電車(地上でもメトロでも)とバスは、乗り合わせたお客さんが向かう方向は同じでも、タイム感やムードが異なる。電車に乗るひとからは、たとえ距離が短くても「よそ行き」というか「移動の必要」を感じる。バスは乗り降りのスパンが短いし、より「生活」と「定住」がお客さんたちから見える。だから、外国に来て、たまにバスに乗ると、思いがけず生々しく暮らしに触れた気分になり、通りすがりでしかない自分の立場をまざまざと考えてしまったりする。これは電車ではあまり起こらない心の動きだ。たとえば、今日バスで通った一画は、厳格なユダヤ教徒たちが暮らす街だ。道を歩いているのは黒い山高帽に黒装束、独特のヘアスタイルと髭をたくわえた男たちをたくさん見かける。どんなに日が照っていても自分自身が影になったようないでたちで生きてきた彼らの現状や今の心中を、ぼくが簡単に思い計ることはできない。バスに黒装束の青年がひとり乗り込んできた。ユダヤ人とユダヤ教徒がみんな同じ意見ではないし、ユダヤコミュニティとユダヤ国家もみんな同胞というわけではない。彼はいま毎日のニュースと自らの出自との矛盾に思い悩んでいるだろうか。「どんな理由であれ殺戮は今すぐやめるべきだ」。あるいは、非常に好戦的な気分でSNSに書き込みしている常連だろうか。「わが祖国、どんどんやれ」。それとも家で切らした卵を近所のスーパーまで買いに行くところだろうか。「困ったな」。それとも、バスに乗っているあいだくらいは気晴らしにサブスクで音楽でも聴くだろうか。「今日は昨日と違うふうに聴こえるぞ」。4個目くらいの停留所で、彼はすたすたと降りていった。他人のぼくにはせいぜい、いくつかの場面が「そう見えた」だけで、すかっとする正解はない。黒い影が行き交う通りをやがてバスは抜けた。

昨日のオスカーで起きたとされるアジア系俳優への蔑視と受け取れるシーン。「そう見えた」をさも大げさにひとはもてあそぶ。とりあえずみんな、「パスト・ライブス」を見たらいい(壇上にいた者もテレビやネット桟敷の者も)。

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