センチメートル・ジャーニー/遠い街と耳のそばの音楽 第四回 ロサンゼルスの「ハニー・ムーン」

(タワーレコード40周年記念サイト「tower40.jp」にて、2019年10月4日公開に掲載された文章を加筆修正しました)

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 夕暮れのLAダウンタウン。治安は数年前より多少よくなったと聞いている。十年ほど前にこの辺りに泊まったときは、チンピラに追いかけられてサブウェイ(ファストフードの)に駆け込んだという思い出もある。その後、怖くてサブウェイに一時間以上いた。

 車は倉庫街のあたりを通りかかった。「スキッド・ロウ」と呼ばれるこの辺りは昔から路上生活者たちの溜まり場として知られている。夕方になり、倉庫のシャッターが降りると、彼らはどこからともなく現れ、今夜の寝場所を得る。

 この近くにはリトル・トーキョーがあるはず。初めてLAに来たとき、この街の一画で70年以上営業を続ける「文化堂」の2階で、あきれたぼういずのCDを買った。1階が日本でも買えるものだったけど、太平洋戦争前の日本でハイカラなコミックソングを歌った彼らの作品を、ここで買うのが意味があるように思ったのだ。せっかくLAに来たんだからもっとレア盤を探しに行けばよかったのにね、とも思うけど、物として貴重なだけがレアっていう尺度じゃ、ちょっとつまらない。結局、ぼくは自分との関係のなかで生まれるレア感が好きだってことなんだろう。
「コールズに行きましょうか」と、ハンドルを切りながらテツヤくんが言った。

 最近、ぼくがLAに行くときは、だいたい彼が車を運転してくれる(ぼくは免許を持ってない)。UberやLiftのサービスはここLAでも充実しているけど、気軽に使うにはだいぶ街が広いのだ。

 今日これからぼくは細野晴臣さんのLA公演を見る。その前に少し腹ごしらえをしておこうかという流れだった。LA暮らしの長いテツヤくんは、この辺りでサクッと食事ができる店として、真っ先にコールズの名を挙げた。「フレンチディップを食べましょう」。コールズは名店のひとつで「1908年から営業してます」というネオンボードを掲げている。

 フレンチディップとは、ひらたく言うとサンドイッチをオニオンスープにディップして食べるスタイルのこと。それって、サンドイッチにオニオンスープが付いてくるセットじゃないの? とも思うが、このスープは飲むのではなく、あくまで浸すためのものだ。この不思議なフードは、もともと普通のサンドイッチを出していたのに、誤ってスープの中に落としたサンドを食べてみたら「うん、うまい!」という事件から生まれたと聞いた。それがダウンタウン界隈のビジネスマンや労働者に受けて、元祖ファストフードのひとつとしてこのあたりに定着した。間違いから生まれたものは、いつだって想像もつかないおもしろさにつながっていく。

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(名店「コールズ」と、名物フレンチ・ディップ)

 細野さんが作ってきた音楽にも、いい意味でそういうところがある。サンドイッチをスープに落としてできた新種の料理を、音楽的なミクスチャーにたとえるのは無理があるのかな? でも、博識な人が狙い澄ましたものを作った、というだけでは細野さんの音楽はまるで説明できない。

 そんなことを考えながら、店内のトイレに行った。「小」の前に立って構えると、鈍く光る金色のボードが目の前に。

 「CHARLES BUKOWSKI PISSED HERE.(チャールズ・ブコウスキーがここで用を足した)」

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    (チャールズ・ブコウスキーがここで用を足した)
 
 不意を突かれて、上(鼻)からも下からも水が漏れ出てしまった。

 コールズを出て、今夜の会場となるマヤン・シアターに向かった。1927年にオープンしたというこのホールは、その名の通り「マヤ風」の意匠を整えていて、エキゾチカな気持ちが高まることこのうえない。パームツリーと初夏の夕陽もその演出にさらに一役を買っている。リトル・トーキョーもチャイナタウンもほど近い。

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    (マヤン・シアター外観)

 車中でテツヤくんに「平日の夜にマヤンのキャパ(満員で1700人という情報)を日本から来たアーティストが埋めるなんてすごいですね。しかも70歳超えてるんでしょ?」と言われた。日本からのイベントなどのアテンドをすることもある彼は、それなりに実情を知っている。本当に動員力がある日本のバンドやアーティストは誰なのか、彼なりの意見を教えてくれたが(ここでは名は伏せておく)、その言葉には説得力があった。

 会場に面した通りに車が入ると、入場を待つ長蛇の列が目に入る。彼は心から驚いていた。

「すごいな。しかも日本から追っかけで来てる感じのお客さんがほとんどいない。こんなことまずないですよ」

 たしかに、ずらずらずらっと3ブロックほどに渡ってできていた行列は壮観だった。性別や年齢、国籍もばらばらに見えた。YMOが話題を呼んでいた時期に全米ツアーを見た世代をもいるんだろうけど、全体的な印象はもっと若い。「熱狂的なファンです!」みたいなムードが目立たないことは、逆にいえば「いろんな音楽好きにいろんなかたちで届いてる」ことの証明ともいえた。

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(公演を待つ行列。ここから数ブロック続く)

 彼らが耳に突っ込んでいるイヤホンからは、サブスクリプションで今この瞬間も細野さんの曲が流れているんだろうか。彼らはそれをどんな言葉で口ずさんでいるんだろうか。うろ覚えの日本語でなぞって鼻歌しているのだとしたら、その不思議な愛情は、ぼくらがかつて「洋楽」と呼ばれた音楽に対してやっていたことと、ほとんどおなじだ。もしもこの行列に並ぶ人たちのスマホを全部傍受できるなら、この場のヒットチャートを集計してみたいと思った。

 マヤン・シアターの場内は思ったよりも広く壮麗。ディズニーランドのアトラクションを、そのまま大ホールにしたような趣もある。ステージ向かって右袖では、水原佑果さんがDJをしていた。そのちょうど反対側の左袖にはバーカウンターがあって、バーテンがドリンクが給仕しているのが見えた。かなり不思議な構造だけど、バーでドリンクを買い求める姿も、このホールの演出のひとつに見える構造なのかもしれない。

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    (ステージ左袖にバー・カウンターとバーテンが見える)

 二階席中央のテーブルにヴァン・ダイク・パークスが座っていたので、近寄ってあいさつした。十年ほど前、ヴァン・ダイクとニルソンが作ったサウンドトラック盤『ポパイ』(ロバート・アルトマン監督)が日本でCD化されるときに取材をして以来、ぼくのことをなぜか覚えていてくれている。「始まるのが待ちきれないよ」と彼は興奮していた。このホールにはたくさんのアメリカ人がいるが、この国でヴァン・ダイクこそ細野さんの才能を最初に見抜いた人物であることは間違いない。もう47年も前の話だ。

 別れ際に、ヴァン・ダイクは手を握り、「Stay strong!(達者でな!)」とぼくに言った。今も音楽の海を渡り続ける船長みたいだった。彼が細野さんと初めて出会ったときにはっぴいえんどが作ったアルバム『HAPPY END』に収録されている曲「無風状態」のことを、ぼくは瞬間的に思い浮かべた。あの曲に出てくる「船長」が、今夜ヴァン・ダイクに乗り移って、日本から航海してきた細野丸を迎えているんだなと。

 ヴァン・ダイクのいたテーブルを離れて戻ってきたら、ちょうど鹿野洋平さんが奥さんと一緒にいた。鹿野さんは日本からLAに渡って長く活動しているミュージシャン。斉藤和義さんのツアー・バンドに参加するなど日本での活動歴もあるけど、基本的にはこの街をベースに仲間たちと音楽を続けている。知り合った頃はマイ・ハワイというバンドをやっていたけど、今のバンドは、ムーニームーニーという。

 ぼくがLAに来たときにタイミングが合うと、ときどき晩ご飯を一緒に食べる。食事をした後、突然「今日、ララージがライヴやってるんですよ」と教わって、150人くらい入ればいっぱいのクラブに一緒に見に行ったこともあった。彼が普段働いているレコード屋さんの常連にルーサン・フリードマン(アソシエーションのヒット曲「Windy」の作者で、伝説的な女性シンガー・ソングライター)がいると聞いてびっくりしたこともあったな。

 鹿野さんは、サウンドマンとしてYOKO ONO PLASTIC ONO BANDのアメリカ・ツアーの手伝いをしたときに、メンバーとして参加していた細野さんと知り合ったという。オフの日に細野さんを案内してLAのローカルな店に出かけたときの話をしてくれたのをよく覚えてる。そのとき、ビーチ・ボーイズの話をたくさんしたそうだ。もちろん鹿野さんの飾らない人柄の良さのせいもあるんだろうけど、きっとこの街の香りや景色も、細野さんからそんな話を引き出すトリガーになっているんだろうな。インタビュアーを仕事にしているぼくの立場としてはまさに垂涎な時間。うらやましい限りだ。

 この日、鹿野さんとしばらく話し込んでいたミュージシャンっぽい雰囲気の男性がいた。あとで「こちらはマニー・マークさんです」と紹介された。どっきりカメラだったら、そのときのぼくの間抜けなびっくり顔がしっかり撮られていたかもしれない。

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(マニー・マークと。「横浜アリーナのビースティー・ボーイズであなたを見ました」「おお、大昔だね!」というやりとり。)

 ライヴは大盛況で終了し、幸運なことに楽屋であいさつをすることになった(ぼくはこの日のライヴレポートを担当していたので)。さまざまなゆかりのあるみなさんがそれぞれの思いをともにこの場所にいる。

 その喧騒から少し離れたところに、今夜のサプライズ・ゲストとして登場し、細野さんと「HONEY MOON」をデュエットしたマック・デマルコがいたので、話しかけてみた。

 「あんなに緊張したことはなかったよ」と、彼はまるで中学生のようにシラフな面持ちで答えてくれた。人の思いの深さって、つくづく不思議なものだ。50年分の思い出と一緒にここまで来た人もいれば、マックのように細野さんの音楽を知ったのはつい最近でも負けないほどの愛着の深さでここにたどり着いた人もいる。遠い昔のことも、ついさっき知ったことも、おなじように新鮮で、おなじように懐かしく思えることがある。考えてみれば、細野さんの音楽自体がそういうものでできあがっているんじゃないのかな。

 鹿野さんご夫妻と一緒に、会場の外に出た。6月のLAは遅くまで明るいとはいえ、さすがにこの時間だともう暗い。どこかにハニー・ムーンみたいな月が出ていないかと探した。あいにくこの夜の月齢は細い三日月だったけど、それでもよかった。月が「よかったね」とウィンクをしていると思えたから。

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