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夜明けの光がすべてを照らす、そしてまた夜の闇に包まれる

人の気持ちはわからない、人にやさしくすることもとても難しい。
人間は神と動物の間に位置づけられ、理性を持ちながら肉体を持ち、その物体性からとどのつまるところもなく、他者に世界になにかしらの現象を放ってしまう。人間は理性を持ちながらも完全体ではなく、その脆弱な理性では自己のコントロールすらままならない。自身の内なる感情も、自身が放つ現象もコントロールできない上、その現象を受け取った他者にどのような心象をもたらすからも知覚できない。想像すらも難しい。
そんな世界に生きていても僕らでも必ず他者と触れ合って生活をしている。不完全な存在である人間は、コントロールできない自己を抱えながら他者と関わり、時には傷つけ傷つけられの毎日を送る。

『夜明けのすべて』は少なくとも、意図して他者を攻撃するような人が一人も存在しない、ある意味では現実にいる攻撃的とも見られる性質の人間を排除してしまったかのように排他的でもあるがそれでも素敵な不思議な映画。
この映画の画面隅々にまで通底しているのは気持ち悪いくらいに覆っているやさしさ。人が人に向ける、そこには利己的なものが一切ない、その一瞬一瞬だけの、だけど延々と持続されていくやさしさに溢れている。

人は存在しているだけでなにか他者に不快感を与える“悪”の存在になりかねない。存在しているだけでも意図的になにもアクションを起こさない状態ですらそのリスクが潜んでいるのに、だれか他者に近づく、関わるなどのアクションを起こせばそのリスクは比例して高まる。『夜明けのすべて』の人々はそのリスクにまったくほとんど触れることなく人に関わる、つまり人にやさしくすることが抜群にうまい。しかもそれをリアクションとして受け取る際のやさしさすらも抜群にうまい。

人が意識してなにかをアクションをするときには動機、欲がある。それは往々にして利己的なものであるが、『夜明けのすべて』の人々は行動の動機に利己的なものが感じられない、すべて利他的か、もしくは動機そのものがないかのような奇妙にも思える自然さがある。
元来、人は他者の気持ちはわからない、ましてや気持ちが存在しているかすらもわからないにも関わらず、ひとつひとつのアクション/リアクションがすべてやさしく、幸せに機能している。
これはとても不思議である。

利他的であったり動機すらもなさそうな自然すぎるアクションは、有象無象の現実世界を生きる僕らの目に安易なファンタジーに映りかねない。どこか空疎で嘘くさいものに。
彼らのその行動に説得力をあたえているものは、過去に身近な他者が自死してしまったり、自らが病によって攻撃的になってしまったり、背負っている過去の十字架によるものではないだろうか。十字架を背負っているからこそのやさしさを生んでいる。
彼らは特段やさしくしようとしているわけではない。だからこそ利己が見えない。彼らは自然にそう関わっている。
彼らのやさしさの根拠には過去の経験がある。経験があるからその可能性を予想して、人への関わり方へつながっている。過ごしてきた時間がこのやさしさをもたらしている。
(それにしても栗田科学の面々がみんな純度の高いやさしさで人間関係を構築してるのはすごすぎる。)

このあまりにも心地良い世界を構築するに、映画的な緻密な手法と作り手の気遣いが宿っている。
人が自然でいられることを最優先しているかのような栗田科学のあたたかみ、自転車に乗る山添を導く強烈な光、藤沢と山添の気持ちを引き寄せる闇、2人を邪魔しないカメラポジション、2人の距離を尊重する演出、その2人を尊重する周りの距離、視線。その世界で生きる2人の身の置き方、立ち振る舞い。
すべての調和が丁寧に行き届いた光。

三宅唱、松村北斗、上白石萌音がたびたびインタビューで話しているように、山添と藤沢の2人が恋愛関係に見えないように注意を払っていたらしい。少しでも気を抜くとそう見えてしまうような距離感でもあるし、でもそうは見えない。そこは2人の演技力の賜物だろう。僕のまわりでもその展開がないことに最初は戸惑う人もいたようだが、鑑賞後は違和感を感じていない。
しかしこの2人の関係、広げると栗田科学やこの世界の素晴らしいところは恋愛関係が生まれないことではない。それよりも依存関係にないところにある。これだけの居心地のよい関係、場所があればそれに依存してしまうことは充分にあり得る。それすらもこの映画はほとんど感じさせない。
地元学生の会社インタビューで会社のいいところや個々の目標を尋ねられるシーンでも、皆それとないような「もう少し駅から近いといいな」程度の温度の低い回答、強いて言えば社長栗田の「会社をつぶさないことが目標かな」ぐらいか。それでもそこに強い欲求は感じさせない。ささやかな祈り程度のもの。
依存のなさが顕著に表現されているのは藤沢が山添に退職を伝えるシーン。物語の終わりを告げるような展開上は重要なシーンに山場を持ってきてもおかしくはないが本当にさらっと、ものの数十秒くらいのシーン。社内のコピー機の前?あたりで2人で作業中に、藤沢からさらっと告げ、山添も「そうなんですね、次どんな会社ですか?」くらいの温度感。もちろん2人がお互いに無関心な訳はない。自分を気にかけてくれて、少しでも安心感を与えてくれる存在が生活範囲から離れてしまうことは悲しいことのはずなのに、この2人は別れすらもネガティブさがない。
お互いの視線が、声が、2人の距離が、救いに通じる。
決して依存ではない。この人しかいないと思わせることもない。でもお互いがそれぞれ助けられることがあると知っている。
人が人にできることなんてわずかかもしれない。もしかしたら祈ることくらいしかできないのかもしれない。でもその祈りはその人をほんの少しかもしれないけど必ず救う。
どれほど美しく素晴らしい世界でも終わることはない。日は必ず昇り、必ず沈む、そしてまた必ず昇る。このやさしさに満ちた生きるのが楽になる世界は、それが終わりなくなったとしても、もう大丈夫だと思わせてくれる。
救いになる光を知り、その光を祈ることを知っているから。

喜びに満ちた日も、悲しみに沈んだ日も、地球が動き続ける限り、必ず終わる。そして、新しい夜明けがやってくる。

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