心は何処にあるか/1×2

心のある場所を指して下さい、と言うと、大抵の人間は左胸を指差す。あるいは、こめかみのあたりをトントンと。おそ松はそうは思わなかった。左胸にあるのは心臓で、頭蓋骨の中にあるのは脳ミソだ。心は、きっと、そう…きっと「右手」にあるのだと思う。だから、この手はこんなに父に触れたくて仕方ないのだ。

その日、急に雨が降ったので、おそ松は気まぐれを起こした。父を、迎えに行こうと思いついたのだ。ひゅうと北風の吹く季節になったせいかもしれない。普段は全くそんな事を思わぬのに、冬の雨に濡れる父を想像するといてもたってもいられなくなった。2度目の停学をくらったばかりで、暇だったというのもあるかもしれない。

物心がついた時、母親の姿はなかった。死んだのか、はたまた出て行ったのか、男ひとりで子は成せぬのだから確かに「母」は存在したらしい。1枚だけ、母親だという女と、どう見ても10代の父の間で、くしゃくしゃの猿みたいな顔をしている自分の写真を見たが、どうにも、納得がいかなかった。目元が、似ている。と、自分を透かして遠くを眺める父の目が気に入らなくて、1枚しかないなら俺にくれと言って机の奥に仕舞い込んだ。よく知らない女にも、十年前の自分の姿にも興味はなかったが、眉尻を下げて、柔らかく微笑む若い父の顔には何度もお世話になった。使いすぎて、今ではかなりくしゃくしゃだ。写真の用途を、多分父は分かってない。

父は、名をカラ松と言い、決してできの良くないおそ松から見てもポンコツな男だった。よく言えば、人が良すぎる。カラ松は自分の言い分を殺して相手の気持ちに寄り添う事を美徳と思っている節があった(しかも相手の気持ちを汲むのが恐ろしく下手だ)。おそ松は不特定多数に振り撒かれるカラ松の“優しさ”が腹立たしく、中学に上がってからはこれでもかと反発した。彼の“優しさ”は“嫌われたくなさ”であり“さみしさ”でも“愛されたさ”でもあった。誰でもいいのかと思うと、カッと頭に血が上った。力の無い頃は手当たり次第に物を壊し、腕力が追い付いてからは本人に手を挙げた。外でもたくさん悪さをした。おそ松のために、カラ松が教師や警察に頭を下げたのは一度や二度ではない。“優しさ”の拡散を防ごうと、おそ松は必死だった。それは、現在も継続中だ。
カラ松は、おそ松が幼い頃は仕事を転々としていたが、ここ3年くらいは小さな会社で事務員をしている。給料は高くはないが、繁忙期でなければ定時退勤が可能らしく、父子はいつも一緒に夕食をとっていた。すぐに短気を起こす息子との食事を父は避けなかったし、嫌いで反発しているのではないおそ松にはカラ松を避ける理由がない。穏やかな夕食は、2人がどうしようもなく家族であることを示していた。

英会話教室のポスターが貼られた壁に寄りかかって、おそ松は改札を見つめていた。普段の帰宅時間を考えると、この辺りの電車で帰ってくるはずだ。思いつきなので、特に連絡は入れていない。傘は一本だけ持ってきた。数分置きに改札口は人の群れを吐き出した。四度目の人混みの中にカラ松の姿を見つけ、おそ松は「カラ松!!!」と大声を出した。驚いた顔をした父は、きょろきょろと首を動かし、声の主の姿を見つけた途端に破顔した。大きく手を振って、気づいているぞとアピールしてくる姿は年齢に合わず幼い。

「どうしたんだ?迎えなんて、初めてじゃないか」
「雨、降ってたから。カラ松濡れたらかわいそーだと思って」

ほわほわと嬉しさを隠そうともしない父親を見ていると、おそ松は右手が熱くなるように感じた。「行こう」と言って歩き出す時、その手を伸ばそうとして、カラ松の左手に皮製の仕事鞄があるのに気付く。邪魔だな。持ち替えてって言うのもヤだな。と思っていると、横から控えめな声が降ってきた。

「…おそ松。昨日のことなら、気にしなくていいんだぞ。俺は、大丈夫だから」
「ッ!!!クソッタレ!!!」

おそ松は叫びながら、カラ松の鞄を奪ってぶん投げた。白いタイルの床に打ち付けられて、中身が散らばる。ここが外だとか、帰宅ラッシュで混雑していて人目があるとか、そんなことは気にならなかった。突然の激昂に面食らっているカラ松を壁に押し付けて、おそ松はその唇に噛み付いた。やっと現状を飲み込んだらしいカラ松が抵抗を見せても、おそ松はキスを止めなかった。

昨夜、おそ松は実父をレイプした。いつか、きっと、そうしてしまう気はしていた。飲酒と喫煙と不純異性交遊の現場を押さえられて、2度目の停学が決まった夜だった。父母召喚で学校に呼ばれたカラ松がいつものように教師に頭を下げ、おそ松を引き取って帰宅した。いつもは、学校を出てすぐに「ほどほどにしておけよ」と笑い、夕飯は何にしようかなどと話して帰るのだが、父は終始無言だった。常とは違う静寂に耐えきれなくなったのはおそ松で、アパートに着くなり食ってかかった。

「言いたいことがあるならハッキリ言えよ!」

力任せに殴りつけると、古いドアが悲鳴をあげた。先に部屋に上がっていた父は、耐えるように床を見つめたままだ。小指の辺りがチリチリして、不安が次々と怒りに変換されていく。

「オイ!」

スーツの胸ぐらを掴み上げると、ようやく目が合った。おそ松は、ゴクリと喉を鳴らした。父は、父の顔をしていなかった。勘違いや、己の仄暗い欲望が見せた幻では決してない。確かに、カラ松の黒い瞳の奥で、愛執の炎が揺らぐのが見えた。それは、おそ松の枷を外すのに十分な衝撃だった。

「誘ったのも、欲しがってんのもお前だろう!被害者ぶって、大丈夫とかぬかしてンじゃねーよッッッ!!!」

胸を押し返す手を力任せに壁に押し付ける。何度も角度を変えて舌を絡め、唾液を送った。力が入らなくなっているカラ松の足の間に膝を割り込ませ、なおも求めていると、カラ松の指が、押さえつけている自分のそれをそっと撫でてきた。その感覚に我に返り、おそ松はカラ松を怒鳴りつけた。好奇の目を向ける聴衆にも「見せもんじゃねぇンだよ!」と噛み付き、カラ松の手を引いて歩き出す。持って来た傘も、カラ松の鞄も放ったまま、ずんずん歩いて駅を出た。カラ松は黙って付いて来る。元より帰る場所は一緒だった。思えば、2人は、おそ松が生まれた時からずっと一緒に暮らして来たのだ。ではその前は?自分が生まれるより前の、自分の知らぬカラ松を想像しておそ松はゾッとした。カラ松に自分の知らぬ所があるのが、どうしようもなく心細くて、早く2人だけの家に帰ってこの男を抱き潰さねばと焦った。今を注ぎ込んで、自分だけのものにしてしまわねばならない。早く。早く。早く。

邪魔なものの無くなったカラ松の手を、おそ松はしっかり握り締めた。触れ合った手の平は熱く、冷たい冬の雨に濡れでもへっちゃらな気がした。カラ松の手が、自分のそれを確かに握り返していて、おそ松は、涙が、溢れそうになるのを必死で堪えた。

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