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ばかの効用

自分はなんてばかなんだろうと思うことがよくある。


想像力がない時。

覚えても、使おうと思えていない時。

冷めた目をする時。

情報に主導権を握られる時。

結局努力していない時。

時間の使い方を後悔している時。

出来事を短い時間軸の中でしか捉えられない時。

褒められて調子に乗っていたと気付いた時。

自分の無知や間違いがばれるのを怖れる時。

そう怖れさせる変なプライドを発見した時。

自分の得意だけを心の中によぎらせる時。

こうやって贖罪してみれば今日のところは救われると思ってる時。


まったく、挙げ始めればキリがない。

どこからか、「普通、みんなそんなもんだよ。ていうか、そうやって気付いて反省してるだけ、君は立派だよ」と囁かれそうな気もする。

一方で、何人かの「ばかではなさそうな人」が頭に浮かぶ。今まで実際に出会った人であったり、ネットや本などで間接的に知っている人であったり。彼らを見ていると「すごいなぁ」と思う。自分よりも多くを知り、感じ、考えている。言動に感心させられるし、自分を丸裸にされている気になることもある。

でも、たくさん知って、たくさん考えている人にだって、苦悩があるみたいだ。世界の美しさや汚さを、ばかな人よりも何倍もシャープに、鮮やかに認識することは、いいことばかりではないらしい。

人に「すごいですね」という時には、それがほんとうに表層的な言葉だと注意しておかないと。遠くからは青々とした立派な山々に見えたとしても、麓では見るも無残な血の川がうねっているかもしれない。

でもね、それでもやっぱり、彼らは「すごい」。彼らは僕なんかよりも遥か先にいるっていうのに、一向に歩みを止めない。それどころか、更にスピードを上げて、自分の行かんとする場所へ走っていこうとする。そんな人たちが残していく足跡をたくさん見られるってことが、ばかの効用なのかもね。