「ずっと正月」とコンプレックスの話

ダウ90000の8人のイメージを僕なりに分類してみた。全部僕自身の考えなので間違ってたらほんとにすみません。

流行を追ったり、ピアス開けたり髪染めたりして急にイメチェンすることが似合う人(吉原・道上)、自分を俯瞰で見たときにそれが似合わないだろうなって自分でわかってやらない人(上原・園田)、何にも気にしないけれど何にも気にならない人(飯原、忽那)、一見そうは見えないけどそっち側にも行ける、むしろそっち側の人間なのかと落ち込むけれど、こっちにも来てくれる人(中島・蓮見)、という分け方になる。
僕は、「自分を俯瞰で見たときにそれが似合わないだろうなって自分でわかってやらない」というスタンスで生きている。そして、この「一見そうは見えないけどそっち側にも行ける、むしろそっち側の人間なのかと落ち込むけれど、こっちにも来てくれる」というスタンスの人間がとても憎くて仕方ない。だって、むちゃくちゃ羨ましいから。

派手な人にはなりたかったなと思う。あんな遊び方を意図せずできたら楽しかっただろうと思う。けど、冷静に考えてあんな生き方は嫌だとも思う。
何にも気にしてない人も憧れる。何にも気にしないことで人生豊かになると思うし、楽だろうとも思う。けど、無頓着すぎるのもつまらないと思う。
僕が妬んでいるスタンスの人たちがずるいのは、一瞬こっち側の人間かなと油断してしまうところにある。安心しきったところでそっち側の人間であることが判明する。今回の公演でも、忽那が店長に言った、「バイト中の私だけがホントの私だと思わないで下さい」というセリフ。あれにはドキッとした。まさか、そっちの人間の可能性があるのかと心がザワザワした。反対に、派手に見えていた道上がインドアだったとわかったとき。あぁ意外とそんな一面があるのねとは思ったが、結局のところ派手な部分を見せてる時点でそっち側の人間だということに変わりはないから、印象はそのままである。
話を戻すが、そっち側の人間だとこっち側の人間をけなしたり腐したりしてくれれば、正面切って堂々と嫌いになれるし、なっていい権利を得ることが出来る。なのに、そういった人たちは何でか優しい。こっちに合わせてもくれるし、楽しそうにもしてくれる。だからまた身を預けてみる。けど、そうしたらそうしたで、スッと離れて本来の位置へ戻っていく。戻っていってもやっぱり優しいままなのだ。ていうか、なんでそんなに余裕あるんだよ。同世代だろ。やめてくれとマジで思う。めちゃくちゃにしてやりたいくらい憎くて、腹立たしくて、ほんとに羨ましい。ズルい。

今回の公演で、主人公の上原には最低限の努力の影が見えた。好きな人のために変わろうとしたり、週に何回も通うという意思表示となる行動はしていた。だからこそ、陽キャになった吉原も本気で後押ししたし、観ていた全員が応援したくなったのだろうと思う。
では、僕はどうだ。俯瞰で自分を見て、自分のことを全部わかってる気になって、はなから期待してないふりをして諦めて、傷つかないことを第一に自分を守って、それが正解なんだと自分に言い聞かせてる真っ最中だった。けど、自分が主人公みたいになるには、どんなことをしても付き合いたいくらい本気で好きな人ができるか、そうせざるを得ない状況まで追い込まれるかの二択しか、ああいった行動は起こせないと思う。めちゃくちゃダサいし、弱いし、情けないし、みっともないけど、どうしたって無理なものは無理なのだ。

いつか、僕にあのコウモリを外すことはできるのだろうか。できないまま死んでもそれもそれで正当化し続けるんだろうな。虚しいな。