なめらかに繋がる社会へ

単一の価値観だけが認められ、そこに当てはまることが幸福であり成功であるとされる社会において、どうしてもアジャスト出来ない人や無理にアジャストさせようとしている人は、生きている実感を得づらい。

これは私自身の経験と、これまで世の中を支配していた資本主義が崩れつつあるなか、それを維持しようとする圧縮された強い流れをに対する反発があちらこちらで散見する機会が増え、このように考えるに至った。

しかしながら、地球や世界が抱える諸問題の複雑性やその多さが顕在化するにつれて、いやいや待て待て、このままでは危険なのでは、と考える人達が増えて来ていることも事実だろう。

え、それに今までどおりで解決できると思っているの?と。

最近では、ダイバーシティという概念が勃興し、あちらこちらで闊達な議論がかわされているのは記憶にあたらしい。さて、どうやってこれまでの価値観からはみでてしまった人達と繋がっていけるのか、共生していけるのか、そもそも人の幸せってなんだっけ、といった具合に。

人は人が思う以上に特異的だ。これまでは言えなかった自分自身の考えや思い、特徴、特性を表現することを恐れずに詳らかにする人が増えてきている。そこで気がつく、元々、単一の価値観に当てはめようということ自体、無理があったのでは、と、みんな結局バラバラの人格を持っていて、変態なの?変人なの?と。

これまで人類が歩んできた成功の軌跡は否定することはできず、その恩恵ははかりしれない、しかし、もうそれでは一人一人が幸せを実感しにくくなってきたのだと思う。

単一の価値観は、時に少数の価値観を持つ人を攻撃し、見下し、排除する行動をとる。それではもう社会が成立しないのだ。

お互いが無理に仲良くなろう、理解しよう、と無理矢理距離を縮める必要は高くないと思うが、お互いの考え方や価値観をある程度把握した上で、共生できる社会が必要なのではないだろうか。

あいつの考え方は理解できないけど、同じ世界に生きている人間同士、なにかあったら助けあおう、無理に関わりあうことはしないけどね、といった具合に。

これは一人一人の人間に置き換えても同じだろう。嫌いな人、苦手な人は人間だから存在するし、無理に付きあおうとしない。しかし、日常生活において攻撃したり、無下に扱うことは自分自身に跳ね返ってくるのは、みんな経験があると思う。

相手を尊重し、困ったときは助け合う。なめらかに繋がっていく。そんな社会を作っていければ良いなと考えている。

「普通の人」なんて人は一人も存在しないのだ。

「人それぞれ」でいいじゃないか。

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