「強弱のモノサシ」しかもってない人々

 人を評価する時、強弱・高低でしか評価できない人が多く散見されるようになった。こと、この病気を患い、日本社会のレールから爪弾きを食らってから顕著に感じれるようになった。

 1つの価値観。高度成長期から日本人に求められた社会資本としての「勤勉性」を賄えるか否か。内訳としては、健康であるか、学歴はあるか、会社への奉仕性は高いか、空気を壊すことは無いか。といった具合だろうと思う。

21世紀になり、個性が声高々と謳われるようになっても、大きな変化はなく、会社レベルでも個人レベルでも他人を篩いにかけ、排除する。未だその排他性は大きな権力を保持し、より均質で、より従順な素材を求めひた走る。

結果的に、年間3万人を自殺で失うという、先進国で稀に見る異常国家が誕生したというわけだ。

あまりニュースで取り上げられないが、毎年3万人が自分で自分の命を断つ、という行為がどれだけ異常なのか想像できるだろうか?各々で想像してみて欲しい。とても残酷なことに気がつくだろう。

他人に対しても、自分に対しても、強弱・高低という言わば二元論でしか評価できない人たちは、強=正、弱=悪という脳内変換が自動的に行われていることが多く、弱いと感じた人々に対しては、やたらと攻撃的である。

自分は我慢してきたから、頑張ってきたから、乗り越えてきたから、それをあなたが出来ないというのは、弱いからだ、怠けているからだ、云々文句が百花繚乱である。其れに加え、自分自身すら強弱で評価する事で、常に自分に対しても攻撃を加えているため、常にイライラしている。

これはとても困った事で、僕のような真面目な人間はそれをそのまま受け入れてしまう。そして自分の価値観や尺度に合わないのに頑張ってしまう。そして限界が来て壊れてしまう。原因や経緯は多少違えど、精神障害者は似たような精神的な強制を強いられた結果、発症しているケースが多いのでは無いだろうか。

また、強弱で考える人間は、その弱さを認めることが出来ないため、他人に頼ることを知らないし、出来ないのである。あくまで、社会とは人々が助けあって暮らしている行為の「効果」で発生しているものであって、頼ることが出来なければ、誰からも頼られなくなり、結果的に孤立してしまう。その現象すらも「自分が弱いからだ」と結論づけてしまうのである。

こうして、自分にも他人にも優しくなれず、人々のもっている多種多様な個性を画一的に矯正しようとする社会の中で、どんどん病む人々が増え続けているのだと思う。

もっと自分自身の尺度に可変性をもたせ、他人との違いを許容し、それを社会に還元し、社会に柔軟性を与えていく。

そのような社会をこれからは作っていきたいと思っている。


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