自分の受け入れ方〜悲鳴が駆け巡る日々〜

 先日、「自分の受け入れ方 著:加藤諦三」を読んだ。可能であれば全てを転載したいほど心にグサグサ刺さる内容で、半分癒され半分絶望した気分にされられたのだが、幾分癒やし効果の方が高かったらしく、今、再読している最中だ。

 全てを転載するのは不可能だが、少しずつ気になった部分を抜粋しながら、自分と照らしあわせた感想などを定期的に綴っていこうと思う。

本著を読み始めてから10分後、下記の文章が特にグサグサ刺さった

”幼い頃から「良い子」を演じている人は、何よりもこの幼児的願望が満たされていない。これが満たされないまま社会的な大人になると、この幼児的願望は心のなかに残る。おとなになって幼児的願望が抑圧されていると、表面は大人の顔をしなければならないから憂鬱になる、イライラする。

(中略)

多くの場合、幼児的願望を満たしてくれるのは母親だけである。その母親が大人だったら、与える喜びを知っているから、幼児的願望は満たされる。しかし、幼児的願望を満たしていない母親は、子供に自分の気持ちをぶつける。子供は母親に気に入られようとして、自分の気持ちを押し殺して「良い子」になろうとする。だから、「良い子」は幼児的願望が満たされないまま大人になる。大人になって幼児的願望をあからさまに出したら、恋人は逃げていく。これがマザコン青年の失恋である。愛された人だけが人を愛することができる。愛される中で愛する能力が培われる。しかし、愛されなくても社会的には大人になっていく。そして、人から何かを貰いたいときにでも、自分が与えなければならない立場になっていく。したがって幼児的願望を持って社会的に大人になれば、日々生きるのが辛くなるのは当たり前なのである。

(中略)

自分の苦しい気持ちをわかってほしい時に、逆に相手の苦しい気持ちを理解してあげなければならない。自分が泣きたいときに、相手を慰めてあげなければならない。「オレのこの気持をわかってくれ!」と叫びたいときに、相手の気持ちをわかってあげなければならない。これでノイローゼやうつ病にならなければ、ならないほうがおかしい。この辛い気持ちを誰かがわかってくれれば、あなたはノイローゼやうつ病にならなくて済んだのである”

と、少々長い引用となったが思い当たるフシがありすぎて、もうこの時点でこの本読むのGIVE UP!といった心境。

とりあえず、母親に怒られまいと「良い子」を演じてはいたよね。かなり集中して母親の機嫌を察知して、怒られないように先回りしたり。それでも怒られることがあるので、どんどん表向きの顔の皮は分厚くなったよね。小中高と年齢を重ねるに連れ、これは相手の感情に寄り添える良い点なんだろう、自分の特徴なんだろう、なんて解釈した時期もあったが、どうやら「我慢」していただけだったという結論。たしかに「反抗期」なんてものは無かった。ぜーーーーんぜん無かった。友人知人は激しく親子喧嘩なんてしていたけど、私は全然ない。怒られる恐怖が大きすぎて、反論なんてしたことないもの。未だに怖い。

幼少期はいじめられっ子で、それを打ち明けることすら怖くて、どうしようもなくなるまで我慢してたり、とにかく我慢×10乗くらいは我慢していたかな。

また、他人と比較して自分たちを卑下する発言が多かった。例えば「◎◎さんちはお金持ちで、ウチは貧乏だからね〜お金持ちはいいわね」「◎◎さんちの息子は優秀なのよ、あなたは夢なんて見なくていいのよ、普通に暮らせれば。」なんてね。小さい頃からずーっと言われてると、頭がおかしくなるし、なんだ自分に期待してないんだ(=愛されてないんだ)、って思っちゃうよね。これはやめた方がいいですよ、世のパパさんママさん達。これでやる気を引き出せるどころか、疲弊して私みたいに神経症になりますからね。

そんなこんなで、

実家=抑圧された環境=わああああああ!辛すぎるううう!

という方程式が10代後半くらいに完成してしまい、強引に東京へ出てきたよね。距離的に離れるのは少なくない心理的安定を私に与えてくれたけど、やっぱり根っこの部分に恐怖や不満、依存などを内包する「幼児的願望」が残っているってのは、やはりショック。自覚できているだけに尚更ね。

これをどうにか処理していかないと、自分がまた消えていきそうなので、この本を拠り所として前向きに生きていきたいな〜というのが今のところの感想。

とりあえず、私の人生はハードモードである。と言うことは痛いほど理解したので、それはそれで楽しめるような心の余裕を持ちたいところです。

続きはまた書きます。本日はこれまで。


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