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病気のせいにすれば少しは楽になるのか?

GWという世間の連休は、民族大移動の様相を呈し、どこにいくにも大勢の人、人、人である。そんな中、私は毎年恒例になった妻の両親の実家へ。

ただ、一般的な家族と少々違う点と言えば、私の両親には何一つ予定を告げず、実家のある地元の駅に降り立つことも、そこから妻の両親や義妹夫婦と実家へ赴くことも一切伝えていないということだ。

カウンセリングにて、私の抱えている両親問題の解決を試みてはいるものの、地元に近づくほど恐怖や不安が増殖し、とても苦しい思いをすることに変化はみられない。

したがって、地元の駅に到着し、すぐに妻の両親の実家に向かうという計画は、一種の救いでもあるのだ。とても助かっている。

ここ数年は、義妹に子どもが生まれ、甥と姪が可愛くて仕方がなく、毎年この時期が楽しみになってきていることも事実だ。

しかし、昨年あたりから、親戚からの「そろそろ子どもは?」というプレッシャーが強くなってきており、そのプレッシャーが辛くなってきている。

私自身、子どもは好きだが、色々な理由から「子なし」を貫いていく考えだ。経済的、心身的な事情が大半だが、積極的に子どもが欲しいという感情はほとんど無い。

田舎に帰ると、結婚して子どもを作ることが当たり前で、その既定路線に当然私と妻も沿っていくものだろう、子どものために生きるのが大人、という価値観は言うまでも無い共通言語であり、それが「普通」だ。

そんな中、私のような考え方は「異端」であり、なかなか理解されにくいものなろうだろうな、と感じている。

確かに、甥や姪が生まれ、家族が増え、こんな私のことを受け入れてくれ、必要としてくれる場所が広がったことはとてもありがたく、感謝している。が、私自身がそういった「家族」を作ることは無いだろう。

前述したとおり、私の両親との問題が大きすぎ、まだまだ自分の心が未熟で、余裕も余白も無いことが理由としてはやはり大きい。

両親から受けた影響は日々の仕事でも現れる。例えば、依頼されたタスクが完了し、すぐに報告すれば良いところを、「今忙しそうだな」「機嫌悪そうだな」「怒られないかな」「ミスはないかな」など、他者の状態を「過剰に気にしては、あれこれ推測しては、時間が過ぎてしまう。といったことが頻繁にある。

また、少し注意されだけで、自分の評価が著しく下がったと思い、落ち込んでしまう。などなど、とても厄介で手に余る影響が出ているわけだ。

こうやって文字に起こしてみると、どれだけ周囲を気にしているんだろうか…と自分のことではあるが嘆息を禁じ得ない。

この現象は、2社目でうつ病が再発・悪化してからとても顕著に発生するようになっている。カウンセラーいわく、うつ病の2次障害というもので、うつ病である自分を肯定できない、うつ病の再発によって発生した事象によって深く傷つき深いトラウマを抱えてしまっている。というのだ。

確かに、2社目に在籍していたときの行動パターンと今では全く違うな、と感じることは多い。

積極的な発言、行動、提案、多岐にわたる他者との交流、自己実現のための努力や研鑽、などなど。これらは今は殆ど見られない。

これは、2社目で復職時に言われた「うつ病は弱者」「復職し再発したら即解雇」などの発言でとてもショックを受けたからだ。

これにより、「会社」という組織を信じることが難しく、自分のやりたいことや、創意工夫ではなく「言われたことをキッチリとこなす」「長期ではなく短期でかたちになるものを仕上げていく」ことを優先するようになった。

そうでないと、自分が他者に必要とされている実感が持てない、また2社目と同様にクビになるのではという恐怖、営利組織に在籍している以上は病気だからという言い訳はできない、という歪んだ認知が深く心に刻み込まれているのだ。

故に、なかなか企業、または人を信じることが前よりも難しくなったように感じる。信じたいが、信じきれない。そしてまた孤独と不信を深め、それがやがて怒りや憎しみとして自分を傷つけ、他社を傷つけるようになってしまうのではないか。という恐怖へと変化するのだ。

こういった考え方自体が、大変依存的であり、他者からすれば余計な負担であるなと思う。

カウンセリングをやっていても、こういった感情がなかなか消えず、また扱いもさして上手くなったように思えない。

うつ病体験記などでよく見かける、仕事で失敗したり、ミスした時は『病気のせいだと思うと気が楽になった』という考え方、逆に辛くなる私はどうしたら良いのだろうか、と、今日とある体験記を読んで頭を抱えていたのである。

とはいえ、一歩一歩進むしかないわけだから、今日の淀みはここに吐き出して、また明日頑張ろう。


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