テクノロジーは弱き者を手助けするものである
うつ病になったことで、自分の痛みや弱さを見に染みて痛感し、自分、または自分と同じように苦しみを抱える人達に対して、こんな僕には何ができるのだろうか?と、悶々とした日々を過ごしていた数年前。
当時から、新しいサービスへの関心は高く、発表されるたびにチェックをし、使えるものなら実際に使ってみては新しい世界を体験していた。
ITを筆頭に時代時代で生まれた新しいテクノロジーというのは、それまでの時代で苦しんできた人達に新しい選択肢や力を与えてきた。
テクノロジーは公平であり、それをいかに活用するか、活用する側の矜持、信念、情熱、哲学がサービスとして昇華していくものだ。
一部の人たちが抱え込んで富を蓄えるものではなく、弱きものたちが自分を表現できるようになり、自分の足で歩けるようになるための、希望の杖であるべきではないか、という想いは今も変わらない。
昔では資本主義の経済システムの中で生きられず、福祉領域で保護され、活かされてきたような人達も、テクノロジーが進歩し、新たなサービスが生まれ、それを使うことで経済的に自立できるようになった。例えば、ブログやユーチューブなどはそれを後押ししたサービスだろう。
今ではプロブロガーやユーチューバーとして自活している人達は少なくない。元々キラキラと生きていた人もいるが、対人能力が低く人と会わずに生活したい人や、引きこもりだった人にとっては、まさにテクノロジーが生んだオアシスなのではないだろうか。
テクノロジーがあると、世の中の多くはいかにお金にするのか?を第一に考え始める。それはそうだ。それが、成功、であり、幸福であったからだ。これまでは。
しかしながら、昨今はまずは多くの人の笑顔を生み出し、結果的に金銭化されるようなサービスが少しづつ増えてきている。
お金は巡り巡ってくるものであり、絶対的な指標ではなくなりつつあると体感してある。それよりも大事なものは、笑顔であり、喜びであり、繋がりであると、人としての根源的な幸福を求め始めているのではないだろうか。
そういうサービスには、ロジックを超えた想いが宿っている。それは、一見してめちゃくちゃな想いであったり、綺麗事だったり、夢物語だと言われても仕方のないものだったりするのだ。
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