「自分」という物語を楽しむということ

 うつ病の人は「他人」と比較して「自分に足りないもの」を見つけ出す。「自分にあるもの」は「無い」と思い込んでいる傾向が強い。ただ、それは生い立ち、とりわけ「親からの愛情をどう注がれてきたのか」という点で大きく左右されている。

親から抑圧されてきた私は、気がついたら「他人」と比較し自分を評価するクセが見についていて、いつだって「欲求不満」な状態だった。いつだって「なんで私は何ももっていないんだ」「もっと頑張らねば」「この年齢でこんな状態なのか」云々、とことん自虐的であったな〜と。

しかし、そうなって当然ではあるんだなと今は思う。上記のような生育環境で成人を迎えたいわゆる「大人」は精神的には子供以下で社会にリリースされるのだ。社会的には「大人」であることを求められるが、精神的には「愛情不足の子供」であるため、そのギャップに悩まされる。社会的に「大人」を要求されるということは、当然、健全に育った人たち同様の精神状態を要求されるわけで、さらに苦しくなるのだ。

これは「目に見えないハンディキャップ」である。「私はハンディキャップを背負って生きてるんだ!」なんて声を大にして訴えたいとは思わないが、そういった人たちも少なからずいるんだよ、ということは社会的にもっと認知されてもいいんだと思うな。

つまり「スタートラインがそもそも違う」という事。それを自覚しよう。という事だ。

人は生まれてから社会にでるまで「健全に成長してきた。またはそであることが前提」という尺度で「ヨーイドン!」と競争していくわけだが、そもそもスタートラインは周回遅れだったり、斤量が倍だったりと、人によってバラバラなのである。だから、比較しようとしても前提条件が違うわけだから、そりゃ結果も異なるよね。と。

そこで他人と比較して「なんで私は・・・」と考えるのではなく、「自分はこういう状況から今までなんとか生きてきた」という「時間・距離」で自分自身を評価していくことが大切なのである。「速度」は人それぞれ。ウサギとカメなのだ。

序章から始まり、今は20歳?30歳?人それぞれだが、自分なりに精一杯苦しみながらなんとか生きてきた今までの物語を誇っていいのではないだろうか。

他人から見てつまらないかもしれない、でもそれは他人だから気にしない。これまで紆余曲折あっても生きてきたこと、今生きていることが素晴らしい。これだけである。其れ以外の評価指標は本質的には不要である。

だから、この「物語」をこれからどう面白くしていこうか。人生厳しくつらいものだがエキサイティングなエッセンスを自分が自分に対してどう加えていくのか。これが自分の「物語」を楽しむ、ということなんだと思う。

何度も言うが、他人と比較することに意味はない。自分と自分、過去から未来、今から未来だけを見ていこう。それがうつ病から抜け出す第一歩だと思っている。

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