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新卒教員を1年で辞めて、コロナ禍で転職したレズビアンの話。

タイトルの通り、私は教育学部を出て、新卒で1年間教員をやり、辞めた。

辞めるまでの経緯

残業休日出勤当たり前の環境に疲れたり、始業式の日からいきなり担任を持ち、自分の力不足で崩壊していくクラスに苦しんだり、、ということが原因でないわけではないが、実はそれらは大した理由ではない。
どうやら私は、新卒の教員の中ではかなりポンコツだったらしく、一時期は、本来は算数の補助として入っていたはずの再任用の先生に、他のクラスの算数そっちのけで1日のほとんど助けてもらっていた。子どもの前では私の担任としての顔を立ててくれて、時には私のために子どもを叱ってくださることもあって、何でここまでしてくれるんだろう?と思うくらい尽くしてくださる先生だった。教頭先生や教務の先生にもかなり助けていただいた。
もちろん子どもとの関わりにも悩むことも多かったし、毎日毎日、教員として不完全なことを自覚しながら子どもと関わるのは苦しかった。でも、子どもの何気ない言動に笑わせられることも多くて、
また保護者にもかなり恵まれていて、私が体調を崩ししばらく休んだとき「新卒の先生が倒れるまで放っておくなんて、学校は何してるんだ?!」と涙ながらに訴えた保護者もいたと聞いた。

そういった面では、決して恵まれていない環境ではなかった。しかし、

同じ学年、目の前のデスクに、とても仕事が出来る先輩がいた。授業も上手く、色んな仕事を率先して引き受けているのに、全てを効率よくこなす先輩。
ものすごく仕事熱心で、努力家で、自分に厳しく、人に厳しい人だった。

仕事の効率も悪く、細かい面に目を向けられる丁寧さも無く、教職に対する熱い想いや、強い向上心も見られないない私がタラタラ仕事しているのを許せなかったのだろう。頻繁に説…ご指導を受けた。やる気がないという理由で、職員室で30分ほど有難いお話をいただいたこともある。
毎日のように言われていたのは「そんな向上心と仕事量だと、一般企業ならやってけないよ?」
ちなみに、先輩に一般企業勤務の経験は無い。


そんな毎日の中で出てきた、原因不明の耳の奥の痛み、喉の奥のつっかえ、まぶたの痙攣、腰痛。息をいくら吸っても脳に酸素がいきわたらない感じがして、ボーッとしてしまうことが多かった。休日の朝、起き上がれなくなるくらいの目眩を起こし、楽しみにしてたライブに行けなくて「何の為に働いてるんだろう…?」と虚しくなった。子どもが居ないとき、無意識に3階の教室の窓から下を覗くことが多くなっていた。昼頃高熱が出て、病院で「明日も下がらなかったら来てください」と言われたものの、朝にはすっかり平熱で、前休んだときに先輩に大目玉を喰らったのが怖くて出勤した。
でも、その一週間後、私はとうとう出勤できなくなってしまった。
子どもはみんな登校できてるのに、担任がクラス初の不登校。

結局、精神科で診断書をいただいて2週間休んだ。
復帰後は授業はほぼ他の先生にしてもらい、出勤するだけの状態だったが、約1ヶ月後に卵巣出血で入院し、また2週間休み。
流石に来年は続けられないと思い、校長の勧めもあり、年度末で一旦辞めることを決意した。

転職先が決まるまで

教員を辞めた後の4、5月は、世間が自粛モードなのをいいことにニート生活を満喫していた。6月になって少しずつ世間が動き出し、大学4年生の妹が内定をもらったことにも刺激され、とりあえずやってみよう、くらいの気持ちで大手の転職エージェントに相談を始めた。
いわゆる「就活」が始めてで、世の中にどんな仕事があるのかもよくわからない、とりあえず人間関係のいいところに行きたいと言う私に、職種は限定せず、とりあえず履歴書を出して通ったところに面接に行って判断してみたらと、エージェントは優しく丁寧にアドバイスをくれた。
元教員で、しかも1年で辞めて、一般企業で活かせるような特化したスキルもない、更にコロナ禍、果たして必要とされるのかと思っていたが、思っていたよりは面接に進むことが出来た。何でも諦めずにやってみることは大事である。

履歴書が通った求人の1つに、福祉施設があった。当初は仕事がきつく、薄給のイメージがあって敬遠していたが、興味はあったので、社会見学のつもりで行ってみることにした。

施設は、とても雰囲気が良かった。それまで面接を受けに行ったどの職場よりも。
見学の後、施設長や実際働かれている職員さんとお話する機会もいただいていたので、疑問に思っていたことを全て訊いてみた。職員さんたちは全ての質問に丁寧に答えてくださった。
お給料も教員時代と比べて、そこまで大幅に下がるわけではなさそうだった。しかも資格を取れば数万円の資格手当がつく。教員時代に培った対人スキルも少しは活かせる。

その施設には残念ながらご縁が無かったが、色々なツテを使って評判の良い施設を探し、面接を受けた。そこも雰囲気が良くて、質問には何でも答えてくれて、去年心の不調があったことも正直に話すことが出来た。
無事採用され、働き始めて3ヶ月、今のところ、ほとんど不満なく働けている。残業もないし、人間関係もとっても良い。
「出来ないことは出来ないって言ってね」「ヒューマンエラーは起こり得るものだから、その前提で仕組みを作る必要がある」「人をケアするためには自分のことも十分ケアすることが必要」という施設の、福祉の考え方に、目からウロコを落としながら日々働いている。


そもそも、何で教員になったんだっけ

面接のときも、就職してからも「せっかく教員目指して教育学部行って免許とってなったのに、何でやめたの?」と何度も訊かれた。
教育ってなんだろう?学校ってなんだろう?という疑問を明らかにしたくて選んだ出身大学、学部、学科。その気持ちに嘘はないし、結局教育ではない分野で働くことになった今でも後悔していない。
教員になったのは、小中高の間クラスで少し浮いてた自分なら、同じように浮いてる子を少しでも助けられるかなと思ったからである。


しかし、その理由は半分で、残り半分の理由は「地位や収入が安定しているから」だった。
レズビアンと呼ばれるタイプの人間である私の人生には、誰かと結婚するという選択肢はない→法的に誰かと支え合えない→だから地位や収入を安定させなければいけない、という思想がこびりついていたのだ。

なんと短絡的な思想だろうか、と、今書きながら改めて思う。
もちろん、安定した収入と地位を目指すことを否定しているわけではない。問題は「レズビアンだから、その選択肢しかない」と思っていたところだった。
例え相手が同性でも、誰かと一緒に人生を歩むことになるなら、その人と収入面でも支え合って生きていけばいいわけだし、別に養ってもらったっていい。そうしやすい世の中になるためにとっとと同性婚が実現して欲しい。(ちなみに私の究極の夢は綺麗なお姉さんに養ってもらうことです!!)。一人で生きていくなら、どんな形でも自分の食い扶持だけ稼げたらいい。そもそも、結婚している男女のカップルだって、今時片方だけの収入で生活しているところは少ないだろう。
結婚しなきゃとか、異性ウケ気にしなきゃとかいう異性愛規範からは自由であると思っていた。しかし、無意識のうちに違う規範にがんじがらめになって、短絡的に教員を目指して、半強制的に止められるまで、もうこの道しかない、と勝手に思い込んでいたのだ。


勝手に自分の道を狭めて自分を苦しめていたこと、そこから少し踏み出した世界は案外生きやすいことに、若いうちに気付いて、本当に良かったと思っている。
そして、人生は健康第一ということにも気付いたので、これからも肩の力を抜いて、楽しく生きていきたい。

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