棚のようにせよ

少し前に夢を見た。

私は薄暗い天井の低い部屋にいる。たぶん畳の部屋で、八畳よりは広そうだ。部屋の壁面にはぐるりとたたんだセーターが積まれている。布団部屋ならぬセーター部屋だ。
真ん中にテーブルがある。テーブルの上に一枚の赤いセーターが置かれている。太い毛糸で編んだカーディガンだ。年若い友人のBちゃんが訪ねてきて、そのセーターを見て「コンタクトを取ってくる」といって出ていった。セーターは下の方が虫食いでぼろぼろ。壁の前に積まれたセーターにもほこりが積もっている。

話は飛ぶが、誕生日、みかみまきさんにソーラーリターンのセッションを受けた。
最初水晶で見てくれたのだが「『棚のようにせよ』だって」と言われたのが印象に残っている。「乙女座の人は、食べること休むことも含めて何時から何時って決めた方がいい」
みなまで言うな、という嘆息が聞こえてくるような、すみずみまで思い当たる、インパクトのある話であった。
自分で自分を雇用し仕事を創り出す自営業で、それなりに忙しくなったのはいいのだが、付け足し付け足しでやることが増えていくので、棚になりようもないのである。棚は全体の範囲が決まらないとつくれない。
前職のときは棚があった。授業の棚、会議の棚、決まっていた。トイレに行ったり移動したりの10分休みという棚。昼食時間の棚。夕食や睡眠やビールを飲む時間は別棚だった。
今は好きなだけトイレに行けるし何回でも休憩もとれるけれど、そのときできるからやっているだけで、棚ではない。ここにこれを置くと決まっているわけでもない。ただ重ねているだけ。支えてくれる板もない。つまり意図がなく、安心もない。忙しければ食事時間は消えていく。仕事が入れば休みはなくなる。簡単に私は自分の一部を消去している。いいじゃんこっちの方がだいじでしょ、といって自分の一部が自分を差別する。そして盗んでいく。自分を自分が。
そういうことをずっと許してきたのだ。

しかし、一日は24時間で、自分は一人で、これはもう絶対変わることはない。

そんな感じで、今私は少なからず疲弊し、それ以上に飽きている。
みかみさんは太陽回帰図を見て「旅もいい」といった。
ちょうど半月後に旅行を計画していた。
「刺激」という言葉をみかみさんは使った。

セーターの夢を見た前後、こんなことを考えていた。
「自分の感覚が、今感じていることではなくてずっと前に感じたことを引っ張り出してきているみたい。」もう長いことそんなふうに思えていた。
「この局面はあの時のあれと同じですね。あのときこんなふうに感じましたね」
あるいは先に思い出が出てきて、その体験の再現トークが滔々と流れる。
もうほこりをかぶって、虫にも食われているセーターを、後生大事にしまっている。

若いBちゃんはなぜコンタクトを取りにいったのかなあと思う。これはここまで書いてから、今日自転車に乗っている時に気がついた。
私の目、とくに右目は白内障と乱視がだいぶ進んでいる。眼鏡なしで自転車に乗り、周りのぼんやりした景色を眺めながら走っていると、頭が勝手に動き出す。あたりをつけているのだ。「この木は葉っぱのかたまりで、葉っぱはこのように重なっている(と思う)。」「この看板のこの字は今は二重にぶれているけれどほんとうはこの太さらしい」
目がものをそのまま見ないで、「よく見よう」とする。本当の輪郭を探そうとするあまり、昔見えていた像を引っ張り出して形を修正する。
いやこれは自分の妄想かもしれない。でもそんな気がして仕方ないのである。

何を見てもぼんやりとかたまり、ものの姿をとらえきろうとして時間を費やしている。そこには不可解さや割り切れなさは残っても、新鮮な驚きはない。
自分がいかに「見ること」に依存してきたかも、よくわかるのである。


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