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フィリピンでキリスト教に触れる機会が増えてきて感じてること

どうも、もよです。

イフガオに調査に行くバスの中でこれを書いています。イフガオに前回10月頭に行った時から、なんとなくモヤモヤしていたことがあるので、またここに書いておこうと思います。

前回記事 フィリピンの山奥で見た宗教のちからも良ければどうぞ。この時とはまた違う話になります。

自分の宗教的立ち位置って

日本にいる間、自分が仏教徒だとか、あるいは無宗教だとかいちいち考えたこともありませんでした。多くの人は、日本の文化は仏教や神道がベースとなっているということはなんとなく知っていて…くらいです。前回記事には、宗教と人間との関係性を見たところ、似たようなところもある、ということを書きました。しかしそれはあくまで、教会でみた様子と日本と比較すればある部分は似ているというだけで、根本にある宗教観は、なかなかに違うものです。そこで最近思っているところを少し書いておこうかと。

結論から言えば、フィリピンに来てキリスト教に触れていると、宗教に全く疎い私でも、ある種の宗教観には基づいて育ってきたんだと強く思うようになったのです(キリスト教否定しているわけではありません。続き見てもらえたら分かるかと)

もやもやが育ち始めたのは最初にも書いたように、私がイフガオに調査に行った時。調査では、現地出身の男の子(友達の友達)がアシスタントとしてついてくれて、いろいろお世話もしてくれました。彼とほぼ1週間一緒に過ごした感じですね。彼はキリスト教。Free Believerという宗派です。

もやもや_食事の前にお祈りをすること

食事の前に、お祈りをするのがキリスト教の(イスラムでもそうですが)マナーです。調査の時にはアシスタントの子と一緒にご飯を食べるわけですから、お祈りをします。

ある日唐突に彼がこう言いました「今日はともよがお祈りをする番だ」

えぇっと思いましたが、いつもやってるのを見てるので見よう見まねでペラペラとお祈りしてみました。天気のこととかご飯のこととか、調査が上手くいきますようにとか…

それを数日繰り返してたんですが、どうももやもやする…なんで私がお祈りしてるんだ?私の言葉は一体どこに向かっているのか??

Thank godという意味が自分の中でピンときてないのに、それを使うって、なんか苦痛…

もやもや_教会に行って友達がみんなに話したこと

もう一つの別の話。日曜日にはそのアシスタントくんが教会へ行くというので、ついていくことにしました。

実は今までにも違う地域で、別の友達と一緒に彼の宗派、Free Blieverの教会の礼拝に参加したことがあります。その時よりも教会の規模が少し大きく、知らない人も結構いました。

中盤に、神様のおかげでどんなことを成し遂げたか、神が自分をどのように導いてくれたのかというのをみんながそれぞれ発表するTestimonyというのがあります。そこで、私を連れてきたアシスタントの子が私たちの調査の成功談を話して最後、こう言ったのです。

「ともよはクリスチャンになろうとしています。食事の前のお祈りもできるようになりました」

むむむむ?私クリスチャンになりたいなんか言ったっけ?食事の前のお祈りもしてますけどあんまり気持ちよくないんですが…うーん。でも、ここでみんなの前で私はクリスチャンじゃない!とも言えず。その場ではスルーするしかありませんでした。

私はクリスチャンじゃなかったし、これからもそうじゃなさそうと思ってる

段々と、自分の今までと今周りに認知されていることが噛み合ってないように思えてきました。歓迎されてるからといって、お祈りしてみたり、教会に参加するべきでないのかな、とかも思いました。みんなウェルカムなのは分かってるけど、やっぱりここを自分のホームにすることはできない。

私はキリストの存在を正直信じてないし、神がこの世界を作ったとも思ってない。苦しい時に上向きになったのは自分が頑張ったからか人が助けてくれたからだろうし、神様がどんな時でも助けてくれるとも思わない。自分の行いは、自分に返ってくると思ってる。自分がやったことの落とし前は自分がつけるしかないと思ってる。

第三者的な目でずっと今まで見てきたキリスト教徒になろうとは思わなかった。自分は自分の大事だと思った言葉や行動を積み上げて今、自分の信念を持っているのではないか。そう、別に宗教じゃなくても自分の信念があればいいやんけと。

そう思えば思うほど、友達の言ったことや、食事の前のお祈りが、自分自身と相反しているし、何よりキリスト教を信じているひとたちにとって失礼なことをしているような気がしました。だって自分の心と違うこと言ってるんだぜ?それって侮辱みたいなもんじゃない?

仏教をかじってみる

それでいままで私は全く調べたことなかった仏教とは何かを調べてみたんですよ。自分の信念と仏教ってどれくらい近いんだろうということで。

仏陀は神ではない、悟りを開いたインドの人。

物事の全てには因果があるということを説いてる。

良い行いが良い運命を導くこと、自分で蒔いた種は自分で刈り取ること。

人生の苦しみや死への恐怖から逃れるために説かれたのが仏教

仏教の中には世界を作ったみたいな話はなく、誰もが納得できるようなそこに真理としてあるものしかないんですね。なるほど、なるほど。だから、納得できるんだ、自分の信念として昇華しやすいんだ。

先にも述べたように、私の生き方は私が拾い集めた先人の言葉や行動によって自分で選択して決めてきたものです。と自分ではそう思っています。

だから…最終的に私は、仏教ベースの無宗教信者という宗教観を持っているんだということをはっきりと認識しました。

キリスト教の教会でシスターと呼ばれることは全く構わない、私も目の前にいる人をシスターと呼ぶことは構わない。そういうルールがあることを理解しているから。それは自分なりに相手を尊重した結果。しかし、私ができるのはそのあたりまで。私には聖書を全て鵜呑みにはできないんです。ライフハック本の一つみたいな感じで、そうかもと思うこともあれば、それは違うだろと思うこともあるのが現実なのです。

だからこそ、自分がたしかにと思うことはちゃんと心に留めておきたいし、大事にしたい。それが私がキリスト教の礼拝に度々参加するに至った自分の信念だったんです。

それが今、この人はキリスト教徒になりたいんですと決めつけられてしまったり、(キリストでなくてもそうです。仏教徒になりたいらしいと言われても、いや、そういうわけじゃないよという気持ちになる) お祈りをするという自分にとってどこから発生したのかわからないアウトプットをしたりすることによって、自分の信念とぶつかってしまってもやもやしたわけです。

これからどうするか

それなりに自分が自分でどう考えてるのかはっきりしてきたので、これからはそれも伝えていけたらいいな、と思ってます。

決して何かを否定するわけではないのです。

こういう前提、宗教観を持ってるからそういう考え方、信念になる、というのを理解することって、めちゃくちゃ大事だとおもうんです。特にその人が宗教をとても信じていて、とても大事にしてるなら特に。

例えば、以前教会に行った時、牧師の人は神が1週間でどうやって世界を作ったかとか、男と女が生まれた経緯を教えてくれました。そして最後にこう言ったんです。「今、男を好きな男とか、性別不明な人とか世の中にいるけど、神様はこの世に男と女しか作ってないんです。だからそういう人たちがいるのは悪魔のせいなんです」

今まで日本で、差別が問題だった(今もだけど)LGBTQだけど、世界ではもしかして、こういう宗教観に基づいて差別されてきたのか?と驚きました。

いろんな社会問題の中で宗教が大きな影響を及ぼしてることは、日本にいたらわからないけど多分世界だとたくさんあるんです。それが表面化したのが、宗教対立なだけで。

そう思うと、自分のためにもそうだけど、他人の理解のためにもいろんな宗教に触れるのは大事だよね、と思います。ただ、自分のモヤモヤには正直に。

ありきたりなまとめになっちゃいましたが、最後まで読んでくれた方いましたらありがとうございます。

一つの宗教を信じることや、特定の宗教を否定しているわけではありませんので!あくまで自分が今思っていること、というだけです。



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