見出し画像

原発事故を覚えていないのか?

原発再稼働?

8月下旬,岸田総理はオンラインでGX(グリーントランスフォーメーション)実行会議に出席し、各方面に原発の積極活用策に舵を切るよう指示したそうだ。それ以前にも,経産省資源エネルギー庁では原発再稼働や新規建設についての策定が進められてきたと報じられている。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の言葉通り,東日本大震災による原発事故や東海村のJCO臨界事故を忘れてしまったのかと愕然とした。原子力はまだまだ人間が簡単にコントロールできるものではない。青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場もいつになっても完成しない。最終処分の方法が確立していないものを有り難がって使おうとしているのは自殺行為にしか思えない。私は福島県福島市在住で,原発立地自治体である双葉町・大熊町からは60㎞以上も離れていたが,11年前には言葉で表せないような不安と虚しさを覚えた。当時のブログを中心に振り返ってみたい。
 ※古い記事が多く,リンク切れの可能性もあり。


東日本大震災発生

地震でゆがんだ福島学院大学の図書館

平成23年3月11日(金)午後2時46分に岩手沖から福島沖に掛けてを震源とする巨大地震が発生した。のちに「東日本大震災」と命名され,福島市の震度は何度かの修正を経て「震度6弱」と決定された。勿論,地震自体も恐ろしかったが,時間差で原発事故の影響が現れてくることになる。地震後,すぐに停電となって翌日には通電した。通電した時,テレビで各地の被害状況を映像で知ることとなる。この時点では岩手県や宮城県,福島県の沿岸部を襲った「津波」が大きな話題になっていた。黒くて大きな波が車や家屋,耕作地を飲み込む動画には言葉もなかった。

福島中央テレビがとらえた水素爆発の瞬間

そして,その夕方には福島第1原発の1号機で水素爆発が発生し,建屋の天井と壁面が吹き飛び,灰色の雲が上空に上がった。地元・福島中央テレビのスクープ映像が全世界に向けて発信された。約17km離れた楢葉町の山頂から常時録画していたものだが,他局は停電のために録画できず,福島中央テレビだけが奇跡的に記録することができた。翌々日には3号機が爆発し,キノコ雲が立ち昇った。地震があるたびに,ニュースでは「原子力発電所には異状が見られません」との言葉が付き物ではあったが,こんなに簡単に事故と結びつくことが信じられなかった。「安全神話」という言葉が脳裏をかすめる。福島原発には広報センターがあり,そこでは何重にも安全策を講じている様子が画像や模型で説明されていて,「『絶対に』事故が起きるようなことはない」と強調されていたからだ。40年以上も前の,学生時代に見学をしたことがある。自信満々の説明だったし,多くの記念グッズ(ノートとペンだったか?)を無料でもらったことも覚えている。入場料も勿論,無料だ。それだけに,あの津波だけで冷却装置が稼働しなくなることに,何重もの安全対策がかくも脆弱で、ずっと騙されてきたことを痛感した。かつて,坂本龍一や忌野清志郎が反原発を訴えていたことあったが,私は積極的には原発に反対せず,電力の安定供給ために原発は「必要悪」のように認識していた。教員組合の新聞がMOX燃料の毒性について書いた記事も,それ以前の度重なる東京電力の事故隠しも読んでいたが,正直なところ,反原発までは考えることはなかった。


福島市の小学校では

さいたまスーパーアリーナに避難する双葉町民

私は,当時,福島市内の公立小学校で2年生の担任をしていた。福島市は地震の影響から,取り敢えず,14・15日を臨時休校とした。しかし,地震被害の全容が少しずつ見えてきたり,空間放射線量が増加したりしたため,そのまま残された3学期は再開されず,春休みになって仕舞った。この間,教職員は物が散乱した教室の片付けや通学路の安全確認に追われていた。いろいろな面で混乱が続いた。まずは,卒業式をどうするのか,だ。既に6年生は連日,式の練習をしていたし,人生の節目であることを考えると,中止にしてよいのかの議論が起きる。当然,職員間でも分断が生じる。「子どもたちのために卒業式を実施したい」派と,「余震も続いており,無理してやる必要はない」派だ。その他に「自宅内がめちゃめちゃで,通勤するためのガソリンもなく,それどころではない」派も存在する。校長が簡素化して式を実施するという職務命令を出したが,結局は休校期間が延びて議論は無駄となった。次に,教職員の分断を呼ぶのが,休校期間が延びたことによる家庭訪問。3月18日の朝の打ち合わせで,校長から「子どもたちと保護者を安心させるために,先生方には児童宅を一軒一軒回ってほしい」と話があった。この時には,1号機だけでなく,3号機,4号機でも水素爆発が起きて,放射性物質を含んだ雲が風に乗って原発の北西方向にある福島市へも流れたことが分かっていたため,「今,小雨が降っています。放射性物質が一緒に地上に落ちてきているのですよ。私たちの健康はどうでもいいのですか?」と強い反対も出た。校長は「子どもたちのために,家庭訪問してほしい。家庭訪問できないなら,せめて電話で安全を確認してほしい」と言うのが精一杯であった。


児童と保護者の動き

一方の子どもと保護者も,原発事故にショックを受け,私が勤務していた学校でも県外へ逃げ出す家庭も現れた。「被災地から避難してきた」と言えば,高速道路料金が無料になったようで,水素爆発の報を聞いて保護者の中には九州地方まで車で向かった家族もいる。また,中国へと渡った家族もいる。中国地方ではなく,中華人民共和国のほうである(母親が中国やフィリピン出身であるケースは今や珍しくない)。多くは,奥羽山脈で放射性物質が遮られそうなお隣の山形県米沢市や南陽市へと向かった。反対に,人が住めなくなった,原発のある双葉町や大熊町から福島市を目指してやって来た家族もいて,混乱を極めたのだ。

不安な気持ちのまま,学校で仕事を続けていた。休校となっていても,教職員にとっては学年末である。通知表を作成したり,来年度のクラス編成を考えたりする時期である。子どもたちには卒業式が予定されていた3月23日まで休校となる連絡が電話で,そして,公民館や銀行,スーパー,文具店に掲示された学校発の貼り紙で知らされた。この当時は従来のメタル電話線を利用した電話と比べて光電話が不通になっていることが多く,そして,固定電話の番号と比べ携帯番号が連絡先として学校に提出されることがまだ少なく,原始的な貼り紙が非常に役に立っていた。私が家庭訪問を何度か行ったり,PTAの役員に文書を届けたりする中で,多くの保護者から言われたのが,「このまま,福島にいていいのでしょうか?」だ。「原子炉内は臨界状態でいつ大爆発を起こすか分からない。日本全体が吹っ飛ぶかもしれないから,先生も遠くに逃げたほうがいいよ」とも言われた。私だって全く分からない。現在の仕事や家も投げ捨て,命を守るために避難したほういいのか…。結論は得られない。

新年度に向けて

マスクをして登校する新1年生

3月31日に福島市の教育委員会から,「総合的に判断した結果,4月6日には例年通り入学式・始業式を実施する」との通達があった。理由は,施設の危険性が低い,通学路の安全が確保できた,福島県の健康リスクアドバイザーの山下俊一・高村昇両氏(長崎大学)が「チェルノブイリ事故とは放射線量が違う(≒福島の事故は格段に適度が低い)」との判断からである。入学式・始業式の準備はいつものことであるが,空間放射線量は原発事故前と比べて高く,諸々の制約付きのスタートであった。子どもたちはマスクをして登下校した。花粉の時期でもないのに,全員がマスクをして登下校する姿は異常である。その姿は地元局が取材し、在京のテレビ局にすぐに送られ,全国に向けて広く放送された。マスクは,勿論,浮遊してい放射性物質を吸い込まないためである。そして,校庭が立ち入り禁止となった。地表上の空間で毎時3~5マイクロシーベルト程度(事故がなければ,福島市は毎時0.04マイクロシーベルト程度)であるが,風雨によって直ぐに線量が高い,低いのムラ(周囲よりも線量が高い箇所を「ホットスポット」を呼んでいた)が出来ることで扱いが難しい。雨水が集まる雨樋近辺では毎時20マイクロシーベルトを越える場所もあるからだ。校庭が使えない,これが一番きつかった。年度が替わると,私は小学1年生の担任となった。体を動かしたい盛りなのに,休み時間に校庭でのびのびと遊べない。教室や廊下で過ごさなければならない。ほぼ6歳児,当然,読書やおしゃべりなどで静かに過ごすことができないから,休み時間は廊下を走り回ることになる。当然と言えば,当然のこと。屋外での行動制限が主なものとはなるが,小さい子どもが屋内だけで過ごすのは,心身の健康上もよくないはずだ。そして,体育,生活科などの学習が予定通りに進められない。一部の保護者からは「放射性物質が教室に入ってくるから,窓を開けないでほしい」「給食の食材はどこで作られたか分からないから,自宅から弁当を持たせたい」などの声が届いていた。どの不安もよく分かる。また,原発に近い富岡町や飯舘村からも転入生がやって来て,児童の学校在籍を担当する教員は山のような仕事量となった。


何を信じれば

夏休みになって,校庭の「表土除去」が行われた。放射性のヨウ素やセシウムは地面に留まるはずだから,表面10㎝ほど削れば放射線量を桁違いに下げられるという考えからだ。ただ,いや,大きな問題があった。廃棄物の中間貯蔵施設がまだ整備されていなかったから,除去した表土も同じ校庭に深い穴を掘ってそこに埋めるしかなかったのだ。ちなみに,除去表土を中間貯蔵施設に運べるようになったのはその8年後である。表土除去によって,2学期以降は校庭で体育を行ったり,生活科で栽培しているアサガオをベランダに出すことができるようになった。大混乱の3月と比べれば,徐々に落ち着いているようには感じた。しかし,放射性物質自体が肉眼では見えないので,人それぞれの恐がり方に違いがあって,一律に何かを行うのが非常に難しかった。私も自身もシーベルトやベクレルなどの単位を知らなかったし,官房長官の枝野幸男氏が言う「直ちに健康被害が出るレベルではありません」の言葉をどこまで信じていいか分からなかった。事故直後は,中部大学の武田邦彦氏のウェブページを読んでいた。政府が住民の混乱を恐れて公表していなかったSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の類似情報(米軍等)を見せていたからだ。しかし,徐々に「2015年には日本に人が住めなくなる」「東北の農産物は猛毒で汚染されているから廃棄するべき」等と言いだし,ただのデマゴーグと感じた。また,事故当初から,YouTubeを発信した山本太郎氏も「高濃度汚染地区の東北」「東北で生活しているとがんになる」「直ぐに避難して」等の発言が相次いでいた。彼らが被曝を心配しての発言かもしれないが,福島が生活の場の者がそれを捨てての避難は非常に難しい。たとえ,金銭や職場,住居を準備されたとしても慣れた場所から別な場所へ移って新しい生活を始めることはストレスを高めることが多く,口先だけのアドバイスに乗れるはずがない。その後,山本太郎氏は「原発から子どもを守る」に軸足を移し,発言がマイルドになっていったが,平成23年11月,福島市内を駅伝のコースとして毎年開催されている「東日本女子駅伝」(フジ系で中継)を中止に追い込むために,選手たちとコンタクトを取ろうとしたこともあり,完全に福島を敵に回したと思う。彼らの言う「5年後,10年後」に人が住めなくなったのか,がんが蔓延したのかどうかは皆様のご存じのとおり。


まとめ

諸々の混乱はまだまだ書き切れないが,原子力発電は「トイレのないマンション」であり,人間の手では最終的に処分できないし,何かことが起きたら大きな損害を伴うことになる。セキュリティ対策の甘さもいまだに指摘され,テロや海外からのミサイル攻撃も懸念されている。ホントに大丈夫なのか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?