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ああ、季節が終わる。『おとぎ話みたい』

わたし(おかとも)が、山戸結希監督のことを好きになって以来、ずっと観てみたかったのがこの作品です。

私の家の周りや生活圏にあったTSUTAYAは、去年あたりからどんどんと閉店していってしまっていて。
最近はもう財布からTポイントカードを出すことすら無くなっていました。
それでも動画配信サイトなんかに頼るのがいまいち苦手なわたしは、ことあるごとにやっぱりレンタルでDVDを借りていたし、TSUTAYAにない作品のことは諦めていました。
この作品もTSUTAYAになくて。

でも、このあいだ、たまたまのぞいたAmazonで
おとぎ話みたい【レンタル落ち】
の文字を見つけ、すがりつくように購入しました。


この作品をTSUTAYAの店舗で手に取って、出逢えたならどれほど良かっただろう。
でも、このレンタル型落ちのディスクがわたしの手元にあることはどれだけ幸せなことなのだろう。

届いたDVDパッケージの裏面に並べられた言葉たちをみたとき、そう思ってしまったのです。

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はじめにエンドロールの話をしてしまいますが
この作品のエンドロールで流れる
好きな人と手を繋ぎスキップをする姿も、一緒にご飯を食べて笑い合う姿も
「こうあれば良かったな」「こうありたい」という、現在の地点からの妄想あるいは創造であるように思います。叶わない恋であったり、終わった恋であればあるほど。

私にも「あなたが良かった」と思える人がいます。地元での学生生活ではなく、「今」出会いたかった。時折そう思ってしまいます。今の生活にあなたが組み込まれていてほしかった。今、あなたがどのように笑い、どのように泣くのかを知りたかった。
でもそれはどう足掻いても、天変地異が起きたとしても、叶わないことで。

だからこそ、縋るために、今の私を救うために、「忘れないでいてほしい。」とだけ願うのだと思います。
とても自己本位である事は否めません。
そう思い、願うことくらいしかできないのだと思います。

ずっとずっと、私がいとおしく思った貴方の、特別でありたい。太陽が夜を切望するように。渇望するのです。

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『おとぎ話みたい』では田舎の女子高生である高崎しほ(趣里)が、文化に造詣の深い社会科の新見先生(岡部尚)に恋をします。
この作品の中にあるのは、限りなく固有な、「私とあなただけの物語」なのです。それはどこまでほんとうで、どこまでおとぎ話なのかはわかりません。

しほは、夜の社会科準備室で先生に自分の気持ちを告白します。

私のこと好きですよね。
すごく好かれてるって思った。認められてるって思いました。
先生のことで頭がいっぱいになるの。
つま先から全部生まれ変わっていくみたい。私、初めて愛を知ったんです。病のようなんです。先生は私を忘れて生きられるの?
この気持ち、あなたには一生わからないままかもしれないね。先生は、特別な男の子なの。


しほは先生に「好きなんでしょう?」と問います。
私は、絶対、好きな人にはこんなことを言えないので、しほがとてもとても羨ましいのです。
でもしほには、自分に自身がないとかいう以前の、もっと混沌とした部分、好意を出発点とする主客未分の混沌とした思いがあるのかもしれません。自分自身への愛と他者への愛。


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51分のこの作品は、しほと新見先生の物語パートと、しほの先輩として出演する“おとぎ話”によるライブパートが交互に入り乱れ展開されます。ライブパートでおとぎ話のメンバーがいるライヴハウスは東京にあるのでしょうか?


そして、メンバー4人はしほの高校の先輩として、物語パートにも登場します。
しほは屋上でライヴをする4人の姿を見て、かっこいいです!と目をキラキラさせ、東京に着いていきます。
物語パートのおとぎ話の4人の姿はなんだかふわふわしていて。演技のせいもあってか、妖精のように見えました。しほと、新見先生との関係にはほぼ介入せず、しほを見守る存在。


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しほは、新見先生に対しても及ばなさのようなものを感じていたのでしょうか?
しほが新見先生のことを好きになったきっかけは、廊下で踊るしほに新見先生が声をかけたことでした。


「ピナ・バウシュ好きなんだね。ローザスのDVD、社会科資料室にあるよ」


そんなことでと思われるかもしれない。
ただピナ・バウシュを知っている人間が、ローザスを知っている人間が、この半径1キロメートル圏内にて生息しているということの衝撃が私の身を貫いた。
踊り続けることでしか自己保存できなかったから その一端をあのような柔らかい視線で包んでもらえることに 心打たれてしまったのだ よっぽど孤独だったのだ ここを出てダンサーになりたいということを決めていて そんなことは誰にも言わなかった 早く東京に行きたかった こことは別の世界で一刻も早く踊りたかった ここには誰もいないと思っていた。その人の名を新見先生と言った

及ばないなと思っていた人や、想定外の人と分かり合えた瞬間というのは計り知れない喜びが付随します。
一緒だ、いっしょだ、一緒だ。頭の中でぐるぐると憶い、そして特別さゆえに愛おしさが生まれるのです。


そのあと、しほは社会科研究室に頻繁に通うようになります。
ダンサーになりたいしほに、新見先生は「メルロ=ポンティ知ってる?フランスの哲学者なんだけど、身体性について書かれているから、ダンスの役に立つと思うよ。」と、メルロ=ポンティの本を借してあげます。

しほが新見先生を好きになっていく過程をみて、心の底から胸が苦しくなるのと同時に、わたしもそんなふうに、特別憧れられる人になりたい。
憧れられる側になるのはどんな気持ちなんだろう?と思いました。


そんな先生への思いを抱いたまま、物語は卒業式へとうつり
しほは卒業式を抜け出し
屋上でひとり踊り、言葉を放ちます。

先生に、私のこと気狂いだと思って欲しい。後にも先にもいない女の子だったなあって、私のこと思って欲しい。先生が私のこと忘れずにいられるように。
あなたに光を届けるからね。あなたへ、愛の手紙を書くからね。あなたのために踊っています、あなたのために踊っています。あなたへ、終わらない手紙を書き続けます。私の立ち姿は、あなたへの愛の言葉です。私が跳ねる左足は、あなたへの愛撫と同じこと。宛先の変わらない手紙を書くよ。私のことを、忘れないでね。


「今」を生きている私たちは、「身体」でもあります。

身体を欲して、身体を善くするということ。
もっと言えば、裸を磨くこと。
自分自身の身体を、燃やし尽くすということ。
他者と混ざりあうことができない事実を認めること。
それでも、あなたとだけは混ざり合えるよう祈ること。

身体の哲学者であったメルロ=ポンティは
身体を“そこから世界が始まるような、世界に対する私のかけがえない視点であり、世界にあるモノの一つなどではない”と考えました。
そして”言葉は身振りである”という定義もしています。

私の身体を通じてみた世界が、全てなのです。
そして、身体があること、そのものが、あなたへの愛なのです。


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きっと私はこれから何度もこの作品を観直すことになると思います。何度も何度も見て、忘れない作品になるのだと思います。


雛形であるあなたへ。
私は私の身体をそちらへ持って行き、あなたの前で踊ることも、話すことも叶わないので書きます。どうか、私ときちんと話したあの時間を、私に笑顔を向けてくれたことを、私に声をかけてくれたあの瞬間を、忘れないでいてください。忘れてもいいから、時々思い出してね。


もう時間はなく私は若くないのだなと思う
相手のためになんだってしてあげたいという気持ち同様に
相手のために引き裂ける時間というものの、その上限が喉元に迫って初めて
そのあまりの手遅れに気づくのだ
私が彼のためにしてあげられることがもはや何もないということがそのまま断絶を意味してしまう
私の愛だけが関係性の全てだったのだ



私は個人的に観たく、この作品を購入してしまいましたが、ミニシアターエイド基金のリターンである「サンクス・シアター」の中にもこの『おとぎ話みたい』が入っているそうです。みなさまのできる範囲で、ぜひ。

そして、いつかまたこの作品をスクリーンで観れますように。


映画チア部京都支部 岡本


参考:ユリイカ2019年7月号 特集=山戸結希
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3309


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