1月12日(声)
外気が冷たすぎてもはや肌が痛いが、みなさまいかがおすごしか?
肉まんは特に代わり映えのない
毎日を送っている。
「代わり映えのない毎日」を非常にわかりやすく説明させていただくと、「インスタにあげることが何もない日々」のことである。
実は今現在テスト期間であるが、なんとかなりそう(な気がするだけ)なので地味にバイトしてはグータラしている。
突然のnote、久しぶりすぎるnote。
今日なぜ突然noteを更新したかというと、
昨年の「声」のnoteの続きをかけていないことをずっと気がかりに思っていたから。
自分の中にいまだに存在する黒くてドロドロしたものを消化させたいから書いたものの、ちょっとだるくてここ一年ほどサボっていた。
しかし今日は暇を持て余し乙女なのでやっとこさ書こうと思う。
ンフフ。暇だね。
ツイッターでもちょこちょこ触れてるが、ママの再婚相手のこと私はいまだに許せていないし今後も許せない。
というか許さない。
願わくば奴になるべく痛い死をお見舞いしてやりたい。
ママは私に対する配慮がちょっと、というかだいぶ足りないので、いつも平然と私の前で奴と通話するのだが、ちょこちょこ私の耳に届く音漏れ会話、奴の声。
揶揄とかではなく本当に吐き気がする。
もう2度と声も聞きたくなければ顔も見たくない。
そんな奴がママの恋人だなんて…!
前回記述したように、私の地獄は中1の頃晴れて幕を開けたわけだが、私による私のための私の感想を踏まえて申し上げるとそれはもうひどいものだった。
いつ、ママと奴が喧嘩をするかわからない。
夕飯時かもしれないし、真夜中かもしれない、朝方かもしれないし、昼かもしれない。
もし2人が喧嘩をすれば奴はママを殴る。
もちろん私のことも殴る。
喧嘩と言っても、正当な理由があるわけでもなければ、口論や平手打ちでパチン!!とかでもない。
本当に些細な問題、たとえば、「洗った皿を拭いて棚に戻さなかった」とか、「目つきが悪かった」とか、そんな理由で、奴はグーで狙ってくる。
マジで痛い上に何回もやってくるので途中から息ができなくなる。
泣き声など出す余裕もない。
容赦ないグーパンに耐えきれずしゃがむと今度は蹴られる。
いや、ほんと、女子供に全力のグーパンとキックかませるのはまじでヤバイ。
どうぞ死ね。といった感じである。
でも、どんなに悲しくてもつらくても、私には打ち明けられる人もいなければ、頼りになる人もいなかった。
できることといえば、2人の声に耳をすませて、今日も無事に眠りにつけるかどうか様子を見ることぐらいなのだ。
私の部屋は引き戸で、鍵をかけられないので衝立をして、外からは開けられないようにしてはいた。
が、ドアなど二、三発叩けば外れる。
私はあの時悲しいくらいに無防備だった。
喧嘩が始まると、部屋のドアを開けられ、奴に殴られ、蹴られた。
ママが私を庇うと、ママ越しに殴ってきた。
2人が喧嘩する原因は大抵私なんだけど、「部屋の窓を閉めてなかった」とか、「電気をつけっぱなしにしてた」みたいなうっかりレベルのものからただの言いがかりに近いものまである。
何か1つでもミスをすればボコボコにされるので、 最新の注意を払って生活していたが24時間気を抜かずにはいられないので、なにか問題を取り上げられてはボコボコにされていた。
中1の終わりからはお漏らしをするようになった。
ママが電話に出ないだけでパニックになって何十回も電話をかけ続けた。
今思えば、私はこのころ壊れていた。
極力ママがいない家に帰らないようにはしていたが、ママがお風呂に入っているときに部屋に入ってこられ、「お前ももう大人なんだよ」と服の上から胸を触られたりした。
ママに言っても「気をつけて」としか言われなかった。
何をどう気をつければ、私は私を守れるのか。
全くわからなかった。
自分が女だということが辛かったし、恋人が、クズだということを受け入れたくないママを見るのも辛かった。
ママが私の言うことを信じないようにしているのはすぐにわかった。
「あんたから誘ってるんじゃないの?」と言われたこともある。
そんなわけないだろうがバカか。
あんな汚い男を、人生これからピチピチガールが誘うわけなかろう。
当時の私の好みのタイプは沖田さん(銀魂)である。
しかしこの時のママは、妻子持ちの男とW不倫からの再婚をしたと言うことで、周囲の人間に責められ続けていたのもあり、かなり頭がおかしかった。
私は胸が成長するのが嫌で、とりあえずSサイズのスポーツブラをつけた。
可愛いブラジャーをつけるなんて、そんな怖くて危なくて汚いこと、絶対したくなかった。
ちなみに今ではブラジャーが大好きだ。
たくさん持っている。
彼氏はあまりブラジャーを見てくれないタイプの人間なので悲しい。
まあそれはどうでもいいとして、自分の身は自分で守らなければいけない、そんなのは知っている。
ただ、未成年がたった1人で自分を守るのには限界があるのだ。
だからといって学校に訴えてもしょうがないと思っていた。
学校が家に連絡など入れた日には怖くて家に帰れない。
そんな自体は避けねばならない。
でも、学校は確かに救いではあった。
ママの泣き声と奴の怒鳴り声、何かを叩く鈍い音、そんな音を一晩中聞かなければいけなかった日でも、朝が来れば学校に一旦は逃げられる。
学校にいる間だけは、誰も私のことを殴らないし蹴らないし触ってこない。
でも夜には帰らなければいけないので、本当の意味では逃げられなかった。
授業を受けているときも、友達と話をしているときも、頭に響く嫌な音。
下校時刻が近づくにつれて体も気分もどんどん重くなっていった。
怖い思いをしなくてもいいみんなが心の底から羨ましかった。
私には帰る「家」なんかなくて、戻らなきゃいけない「地獄」があるだけだった。
「死んじゃえばあの家には帰らなくて済むのに」
何百回もそう思ったけど、死ぬのは怖かった。
中2あたりからは、ママと奴の喧嘩が始まるとテレホンカードと制服をひっつかんで家から抜け出し、知り合いのおばさんの家か、友達の家に避難した。
でも次の日には帰らなきゃいけない。
一時的に助けてくれる人がいたとしても、解決してくれる人はどこにもいない。
漫画や映画みたいにいかないのが人生なのだ。
大金持ちや親切な人間と運命の出会いを果たし、私の地獄があっけなく終わる、何回もそんな感じの妄想をしたけれど、そうはならなかった。
けど、なんだかんだ地獄は終わった。
一気にではなく徐々に。
その過程もまた、辛くて苦しいのだけど。
中3の9月、奴とママの喧嘩が始まった。
怒鳴り声がする、何かを叩く音がする、母が泣いている。
一体何回目だろうか。またいつもと同じように悪夢が始まった。
ただ、いつもと違ったのは奴が包丁を持っていたことだった。
私の部屋に入ってきて、「いつもお前のせいだ
お前がいなければもっとうまくいっていた。」と言われた。
手にした包丁は私に向いていた。
包丁を向けられた経験があればわかると思うが、ただただ「死」である。
普通に超怖い。
(ヤベェ殺されんなこれ!!)と思った。
全力で部屋から飛び出した。
私は50m11秒のドン亀なのだが、あの時測っていたら8秒は堅かったのではないだろうか。
裸足で家を飛び出した。
もうここには帰れないと思った。
奴が追いかけてくるのがわかった。
だから柵を超えて家の近くの用水路にしゃがみ込んだ。
まさか私が用水路にいるとは思うまい。
全部夢なことを膝を抱えて願った。
千と千尋の千尋が、透けて行く手を見ないように「これは夢だ!!」って言ったシーン、あれすげえわかるわ。
私にハクはいないんですけどね…!
指名手配犯の気持ちを1〜2時間ほど味わったあと、このまま用水路に住むわけにはいかないと我に帰り、歩いた。
とにかく車や人影が怖かった。
「見つかったら殺される」と思った。
ただの脅しなどとは思えなかった。
生まれて初めて刃物を向けられたのだからこの動転ぶりは許してほしい。
(どうすればいいんだろう)
中学一年生からずっと考えていたことを私はまた考え始めた。
まだ15歳で、お金もなくて、携帯もなくて、しかもパジャマ一枚で、あろうことか裸足。
どうしようもないのだがあそこには帰りたくない。
包丁は流石にやべえだろ。
色々考えた結果、
とりあえず警察に電話しようと思った。
いや、とりあえず警察って自分で言って響きがなかなかに謎。
まあでも本当にどうしたらいいかわからんし、とりあえず公衆電話に入って110番した。
包丁を向けられて、どうすればいいかわからないと伝えた瞬間、(こんなつまらないことで電話していいのだろうか)と不安になったが、電話口の婦警さんに、住所を教えてと言われた。
(え!?来てくれるの!?)と思った。
「あの、私、家に帰らなきゃダメですか?」と聞いたら「大丈夫だよ」と言われた。
待ってたら警察が来て、車に乗って、家の前まで行った。
警察官が私の家に向かった。
ああ、家の安全確認後に帰されるんだ。
私の寿命は本日をもちまして終了とさせていただきます……
と脳内アナウンスしていたところ警察官が戻ってきて、今度は警察署に連れていかれた。
体の傷を写真に撮られて、色々質問された。
そしたらママが来た。
帰ってきてと泣きながら言われたので、もう戻りたくないと伝えた。
いままで、何を言っても、どうもしてくれなかったじゃない。
私が何をされても見ないふりしてきたじゃない。
もう私は限界なんだよ。
ママは私より男をとりつづけてきたんだよ。
今まで言いたかった言葉が喉元に差し掛かりはしたけど、泣いてるママが可哀想で言えなかった。
ただ、「ママ頑張ってきたじゃない!!」と怒鳴られたときは流石に肉まんも大声で怒鳴り返してやりたかった。
私はあなたの再婚相手に嫌なことをされてきたんだよ。
帰れない家に帰らなきゃいけなかったんだよ。
痛くて辛くて苦しくて死にたかったんだよ。
いろんな思いが溢れた。
でも言えなかった。
全部を言ったらママは死んじゃうんじゃないかと思った。
その代わりに「私はずっと死にたかったの!!」と言って手首を見せてしまった。
「この傷が目に入らぬか」さながらに。
いや、これは普通にめちゃめちゃ後悔してる。
数年経った今でもリスカしていたことは仲良い友達と、私の素性を知らないツイッターの面々にしか知られたくないというのに。
よりによって自ら母親にバラすなんて…!
コノッバカーーー!!といった感じである。
警察署で泣く母と娘。
この様子を例えるならばカオス以外の何物でもない。
無秩序そのものである。
警察官のおじさんが入ってきたときに「これからあの人も来る」と母が言った。
すると、おじさんが「馬鹿野郎!!なんでここにいること伝えたんだ!!」とママに怒鳴ったのでおったまげた。
たしかにうちのママはちょっと頭おかしいときあるし今とか最高に頭おかしいけど怒鳴んないであげて…!
そう思ったけど口に出すほどの元気も勇気もないし、何が何だかわからないしで、私はとりあえずボーッとしていた。
そもそもなんでこの場に及んで奴を呼ぶのか本当に不可解極まりない。
さて私はこれからどうなるのでしょうか。
刹那に身を馳せたが割とそんな時間はないようで、警察の方に車に乗るよう言われたのでおとなしく乗った。
着いたのは大きめの保育園のようなところで、着くなり裸になるよう言われ、また傷とかを確認された。
尻の割れ目も見られたような気がするがそこはあまり覚えていない。
ならばなぜ書き記したといった感じだと思うが確かに尻の割れ目を見られた気がするのだ。
定かではないのだが。
六畳ほどの部屋に布団を敷いてもらい、その日はそこで、眠った。
私、これからどうなるんだろう。
不安で眠れなかった気もするが覚えてないので多分爆睡したと思う。
それもそうである。
殴られ、蹴られ、包丁を突きつけられ、用水路を旅し、警察を呼び、母にリストカットしていたことを大声で打ち明け、警察官が母に怒鳴るところを一晩で体験したのだ。
ここまでいろんなことがあると一周回って落ち着き払ってしまうということを知った15の夜だった。
一晩明けて、私がいるのは、養護施設に行くか、家庭に戻るかを考える間に子供が滞在する施設だということを知った。
(もうこれで、少なくともしばらくの間は、殴られることもないのか)
いささか不安ではあるがとにかく嬉しかった。
家庭に居られない子どもが共同生活を送るのだからルールは厳しかった。
相手の体に触ってはダメだし、お互いの個人情報を教えるのもダメだった。
ママと、児童相談所の職員の人との三者面談がとにかくきつかった。
ママは私に家に帰ってきてと言った。
でも私はもう絶対に戻りたくなかった。
そもそもあんなの家ではない。
とにかく離婚して欲しい。
私と2人で暮らして欲しい。
果たしてそんなに難しいことなのだろうか。
今までは、お兄ちゃんと私とママで暮らしてきた。
奴はお兄ちゃんの留学とすれ違いにやってきただけなのだ。
別れればいいじゃないか。
だって、最低な奴なのだから。
私よりもそいつを選ぶ理由って何?
そしたら私の一人暮らし案がでた。
たしかに、今までの生活に比べれば1人で暮らせるということは幸せだ。
でもそれは、私にとっては捨てられたも同然だった。
なんで私を1人にするの。
なんで私が1人にならなきゃいけないの。
私はママの子供だよ。
だいたい、戻ればまた同じことが繰り返される。
今度は誰にも言わないようにキツイ口止めがあるだろう。
そんなことわかりきっているのだ。
他人に暴力を振るう人間が、ある日いきなり暴力をやめるなんてこと、そんなことはあり得ない。
私が望んでいたのは、奴とは縁を切って、ママと一緒に住むだった。
けど、それはできないと、泣きながら怒鳴られた。
なにが不満なのだと言われた。
私にはその言葉の全く意味がわからなかった。
子供が親と一緒に住みたいと願うのはわがままなのだろうか。
子供より男と一緒にいたいと願うママの方がわがままなのではないか。
話は平行線のまま、施設に入って2ヶ月がたった。
受験期だというのに、学校に行けない。
最初こそ多少つらかったが、もはやそんなこともどうでもよくなっていた。
児童相談所のケースワーカーさんに「もっとつらい子もいるんだから、少しくらい譲歩しないと」と言われた。
うるさい。
だまれ。
私にとっては私の痛みが全てなのだから、他の子の痛みを引き合いに出すな。
とにかく悔しかった。
さらに、兄が留学先からはるばるやってきた。
「大変だったね」と言われるかと思いきや、悲劇のヒロインぶっていると失笑され「一人暮らしまでさせてもらえるのになにが不満なんだよ」と言われた。
さすがだ。親の金をふんだんに使い、外国で好き勝手遊んでる奴のいうことは違う。
久しぶりの再開、5分もしていなのに殺したいほど悔しいやら、死にたいほど悲しいやらで泣きそうになった。
身近な人間が、こうも当たり前に責めてくることが不思議だった。
もしかしたら、私は、「つらい」のではなくて、つらい「演技」をしているだけなのかもしれないと思った。
私のメンタルが弱いだけで、本来ならそんなにつらいことではないのではないかと。
まあ、(いや、それはねえな。母親の再婚相手からの暴力と性的な視線に耐える日々普通に死ぬほどつらいわバーカ死ね)とすぐに思いなおしたので疑心暗鬼期間はすぐに終わったけど…!
どうして私が責められなきゃいけないのかわからなかった。
ただ、私が選択できるのは「一人暮らしをする」ということだけというのはわかった。
中3の終わりから始めた一人暮らしは、高校卒業間近になるまで続いた。
家賃以外は自腹だったのでアルバイトと家事と学校で死にそうになりもしたが殴られるよりはマシだと思うと頑張れた。
なによりも、誰かに怯えることのない日々は、とても素敵だったし、幸せだった。
一人暮らし…!
まじめっちゃ寂しかったけどね…!
三年間の間で家にいれた友達は2人である。
あの頃の私は処女だったのでどんなに小さなことでも恥ずかしく思ったのが原因だ。
「布団くせえな」とか思われたくなかったので、本当に心を許した友人しか入れなかった。
これは嫌味でもなんでもなく素直な意見なのだが、女性たちが年を重ねるにつれて恥知らずになっていくのは、男の前で裸を見せるという試練をくぐり抜けたからだと思うのだ。
異性の前で裸になって初めて女は「恥」という概念をある程度超越できると思う。
今一人暮らししていたら、友達も彼氏も呼んでどんちゃん騒ぎしている。
残念ながら今現在は兄夫婦と暮らしており、そんなことしたら殺されるのでできないが、家に人を呼ぶのは私の憧れだ。
ちょっとなにを言いたいのかわからなくなってきたので話をまとめるが、そんなこんなで小5から中3まで続いた私の「地獄」も、ゆっくり沈んでいったのだ。
ママが選んだのは私じゃなくて奴だったけど、選ばなかった私を大学まで出してくれたのだからもう文句は言わないことにした。
ただ、数年経った今でも奴のことを思い出すと心臓が波打つ。
あの日々を思い出すと泣きたくなる。
ママと駅でバイバイする時は、(なんで私のこと選んでくれなかったの)と心の中で問いかけてしまう。
辛い出来事は冗談にできて初めて消化されるものだと思うが、まだ冗談にするには私の時間がいる。
あの頃の私が本当に欲しかったものは、家族みんなで仲良く暮らすことだったのだけど、ママは今でも奴と暮らしてるし、お兄ちゃんは結婚して家庭があるし、パパは死んだ。
だから私が、「家族みんなで仲良く暮らす」には、新しく家族を作らなきゃいけない。
私みたいに育ちの悪い人間が、ちゃんと家庭を作れるかなんてわからないし不安もある。
だけど、もし家族を作れたら、ベッタベタのギットギトに甘やかそうと思う。
マイベビーはもちろん、ダァリンもね…!
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