本山桂川と徳富蘇峰

本山桂川の書簡からみる徳富蘇峰との交流

 徳富蘇峰宛の本山桂川書簡は6通あり、徳富蘇峰記念館へ保管されている。本文は、筆者が当館で調査を行った報告である。
 本文については、書簡の全文を翻刻掲載したものではない。また、内容は要約し、注釈が可能なものには入れた。徳富蘇峰は蘇峰、本山桂川は桂川としている。

 最も古いものは昭和8年に送られたものであり、内容は本山桂川『海島民族誌』の序文に対する礼である。この頃は桂川も千葉県市川町(現市川市)に住んでおり、東京市にあった民友社へこの書簡を送っている。
 2通目は、昭和9年のものである。内容は桂川へ蘇峰の人脈を介して人を紹介したことがわかる。まず紹介されたのは、永井柳太郎と堀田正恒伯であり、桂川は資金の援助を申し出たようである。この当時桂川は、市川町の町会議員を辞任し、社会民衆党からも脱党しており、自身の「日本民俗研究會」の自営のみを行っていた時期である。ここから考えられるのは、桂川は会を継続していくための資金援助先を探していたのであろう。ただし、その進捗は芳しいものではなく、学術振興會、原田積善會、徳川紀念會等にも申請をしたようである。
 3通目は、昭和13年のものであり、桂川が主宰編集した『新撰大人名辞典』(昭和12年平凡社)について述べられている。さらに桂川によると蘇峰から「御援助」を受けていたことがわかる。ただ、これが金銭的なものなのか、蘇峰のネットワークによるものなのかは不明である。
 そして、本山桂川『近世 支那興亡一百年』が刊行されることと、蘇峰へ序文を願い出ているが、この序文の校正が同封されている。これは桂川が事前に文面を書き、蘇峰が赤字修正をしたということであろうか。
 4通目は昭和14年であり、本山桂川『ロシア侵寇三百年』へ蘇峰が序文を認めたことへの礼が述べられている。なお、前出の『近世 支那興亡一百年』は蘇峰の序文によると文部省推薦図書に指定されたとある。
 5通目は昭和26年のものである。この頃には蘇峰は静岡県伊豆山へいる。また、桂川も水戸へ疎開した後である。この当時の桂川の状況について、久しく蘇峰と連絡をとっていなかったとみえ、自身の状況を説明している。その内容に補足して以下に記す。
 昭和20年4月の城北大空襲により、これまで収集した調査資料などを焼失し、徒歩で水戸まで疎開した。その後昭和22年には水戸市会議員選挙に立候補し当選している。本書簡が送られる前年(昭和25年)には、金石文化研究所を興しており文学碑の拓本などを行っているようである。
 この金石文化研究所の調査として、水戸市郊外に放置されていた西山公眞筆の詩碑の発見や貞芳院の歌碑を復興したようである。さらに話題は蘇峰の撰文や揮毫について述べており水戸だけではなく、清水や鎌倉まで行き、費の拓本や撮影をしているようである。
 ただ、順調そうに語られる桂川の文面であるが、資金面で不安があるようで蘇峰へ「知名家」を紹介して欲しい旨を記し、「日本金石文調査研究企画」を同封している。
 最後となる6通目は、昭和28年に東京都世田谷区の金石文化研究所より送られたものである。書面も当初は水戸から東京都世田谷区へ引っ越したことを述べている。
 この当時の桂川も精力的に近代金石文の調査活動を行っていることがわかる。また、『近代名碑写真帖(仮題)』の出版を控えており、「徳富健次郎墓誌」の拓影を見ることができないため、蘇峰の手元に拓本写真があるか伺っている。
以上、非常に簡単ではあるが徳富蘇峰へ送られた本山桂川の書簡の内容を紹介した。桂川は頻繁に蘇峰と連絡をとっているようではないが、桂川の活動に蘇峰は理解を示し、協力していることがうかがえる。ただ、現在保管されている書簡だけでは桂川と蘇峰の交流がどのように始まったのかは明らかではない。

注釈

・永井柳太郎・・・早稲田大学雄弁会出身、衆議院議員(立憲民政党)、昭和9年7月まで拓務大臣(斎藤実内閣)

・堀田正恒伯・・・旧蓮池藩鍋島家当主鍋島直柔(なおとう)子爵の次男で、旧佐原藩堀田家当主堀田正倫伯爵の養子となる。東京帝国大学法学部、同大学院卒。貴族院議員。昭和6年~11年海軍政務次官。

・原田積善會・・・現・公益財団法人原田積善会。大正9年に原田二郎の全財産を投入し創設した財団。助成事業活動で社会事業分野、学芸事業分野を柱としている。平成23年に公益財団法人となった。

・徳川紀念會・・・徳川黎明会の事か?

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