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2024年7月の『CJメッセージ』〈第80回目〉

20期目、まもなく創業19周年。

みなさまのおかげで、カスタムジャパンは2024年8月9日に20期目を通過し、創業19年目を迎えることができます。これまでのご支援、ご愛顧に心より感謝申し上げます。

2024年は第20期目の会計年度に突入し、新たな挑戦と成長を続けております。この節目に際し、創業当時の思い出を振り返りながら、皆さまと共にこれからの未来を描いていきたいと思います。

創業の背景

カスタムジャパンの創業は2005年ですが、その誕生の背景には私の家業である「鶴橋部品(現:日本モーターパーツ)」という会社があります。鶴橋部品は、私たちの原点であり、カスタムジャパンの基礎を築いた大切な存在です。

創業期の写真紹介

今回、創業記の写真を創業メンバーから頂いたので、いくつかご紹介いたします。これらの写真は、カスタムジャパンの初期の頃の姿を記録した貴重なものであり、私たちの歩んできた道のりを物語っています。

2005年:家業の鶴橋部品とカスタムジャパン創業の頃。
鶴橋駅から徒歩数分の千日前通り沿いに鶴橋部品がございました。遠隔は日本モーターパーツのサイトをご覧ください。


家業の鶴橋部品(2005年の頃)

現在はテントの一部が残っている程度です。

鶴橋部品の受付カウンター(写真は松崎さん)
カウンターの上下にはスタンレーとM&Hの電球を格納。
カスタムジャパン創業時の倉庫。
NCYのフロントフォークやプーリー、ディスクローターなど。
カスタムジャパンの仕入総合カタログVol.1がこちら。
Excelで作成した6ページのカタログです。
ロゴも現在とは違いますね。
仕入総合カタログVol.1は文字と金額だけのシンプルな内容です。
当時は価格が明確ではなく、卸先によって価格が違いましたが一物一価の卸価格を設定してカタログを配布致しました。
2期目に発行した16ページの総合カタログです。当時の取扱い点数はバッテリー、NTB、PFP、MIRAXを中心に1000点ほどのみでした。(記念すべきVol.2の制作は辻川さんです。おおきに。)
バッテリーのクリエイティブは今とあまり変化がないですね。
新型バッテリーOTXという名前でノーブランドとして発売。
その後、ラリー、プロセレクトと名前と性能をアップデートして今に至ります。
KOYOバッテリーは台湾のブランドでしたが、現在は廃番となりました。
カタログは一時期1000ページほどまで拡張、創業期の販売促進としては良い宣伝ツールだったと思います。

2006年:B2B通販事業の本格稼働開始

バッテリーをコンテナからデバンニング。
4名が手作業による荷下ろしで2,3時間程かかるハードな運動でした。
(写真は左は梶岡さん、右は今井さん。)
創業時は手書き伝票でしたが、数カ月後に東芝の販売管理システム導入。
当時はECサイトはなく、FAX注文と電話注文のみでした。
注文を受けた人がピッキングし、夕方頃から一斉に梱包という往年の部品商スタイルです。
エアコンなしの長屋からリフォームしてエアコンを設置した2006年頃の事務所です。
それ以前の事務所は丸椅子でエアコンなしで煙モクモクの咥え煙草で受注を行う昭和スタイルでした。
実は当時の古いオフィスが嫌でしたので、写真撮影したものが残っていません。
鶴橋部品エントランスは受付と梱包スペースです。
かろうじて古いオフィスの様子がうかがえる写真です。
梶岡さんの姿を気にせず背景をごらんください。
こちらが梱包スペース及び来店受付エリアです。
右に見える段ボールは梱包用の段ボール置き場ですべて仕入した箱を再利用していました。
左に見える変色したオイル缶は焚き火用の缶で夕方に不要な伝票などを毎日燃やしていました。
燃やす場所は千日前通り上というこれまた昭和な風景でした。
家業の諸先輩方や先代との写真です。
諸先輩のお名前は、あきちゃん、すーちゃん、うめちゃん。
社内でもお客様からもちゃん付けで呼ばれていた頃の写真です。
あきちゃん、すーちゃん、うめちゃん。
社内でもお客様からもちゃん付けで呼ばれていた頃の写真です。

商品開発:バイクパーツの流通をカスタムする会社として、スクーターのカスタムパーツから事業スタートしました。

いろいろ商品開発しました。
これは構造に問題があり廃番した派手なマフラー。
吸気が強すぎ&主張強すぎグラデーション。
光物流行時代とゴールドのローダウンサス。
マフラーはホワイトカーボンでしたら色焼けするので短命で終わった商品です。
スクーター用のスタビライザーもつくりました。
街中のスクーターに装着してどこまで効果があるかは不明ですが、
見た目のインパクトがあり結構売れた商品です。
以外に売れたゴールドとシルバーのロレックス的コンビサス。
伝説のシグナスX63㎜最強最速セット187㏄。
ピストンの大きく限界までボアアップした商品です。
実際の限界点は65㎜まで拡大可能えすが、
耐久性や熱の問題が大きく63㎜が最大値と判断しました。
ロングクランク装着。63㎜はオイルライン移設が必要で高度なカスタムでしたが、他社では取扱がなかったのでプチヒットの高付加価値商品開発です。
はじめての開発車両はロッシモデル。村井の私物でしたが、商品開発用にカスタムし過ぎで派手になり乗らなくなりました。
63㎜ボアアップとロンクラとハイカム。

お客様:当時、たくさんお買い上げいただいた南海部品横浜店さん
現KN企画のたかちゃんが勤務されていたスクーターカスタムのお店です。おそらく、日本で一番スクーターカスタムパーツを販売していたリアル店舗だったと思います。

スクーターカスタムの聖地だった南海部品横浜店(たかちゃん)
メガヒットの特殊六溝式、いわゆるブラックシリーズトルクカム。
O/Sは、オプティマムセレクションの略称です。
台湾パーツ黄金時代。オプティマムのシールやJ.BOYさんのシールもありますね。
DCR、RPM、FNSと台湾メーカーがずらり。
日本のキタコさん在庫も少しありますが、当時は台湾メーカーが大ブームの時代でした。
K&Sのパワーフィルターはロングセラーでした。現在は廃番です。
アルミファンカバーも安定した売れ行きでした
OKO、NCY、マロッシ、DCR、RPMと豊富な駆動系在庫の南海部品横浜店。
懐かしの南海部品横浜店、経営はナップスさんでした
NCYのドライブフェイスを加工した伝説のたかちゃんフェイス。


訪問研究:サプライヤーへの訪問と商品開発研究

NCYさんが引っ越した頃の写真

NCY陳さんのインタビュー記事が残ってました。
↓ ご覧ください。
記事から商品へはリンク切れのページですが、、、。

シャーシダイナモで駆動系のチェック。
シグナスXの駆動系は業界一番を目指し商品開発を推進しました。
加速の溝を無くす、つまりスムーズな加速感を感じるように何度も角度やサイズを調整しながら開発しました。
メーカーとサプライヤー、協力工場との商談です。
台湾にあったNGKプラグのノックダウン工場に日本特殊陶業さんのご厚意で訪問いたしました。
NTBブランドの丸中洋行さん、笑顔の中川会長です。真ん中は山崎さんです。
おそらく2006年ぐらいの写真ですね。

2007年:創業3年目に4階建てのスーパー跡地に移転
創業3年目の2007年に、倉庫の場所は細かく5か所に分かれて混乱状態となったので、4階建ての一棟ビルに移転しました。たまたま、居抜く物件だったために商品棚も残っており、マテハン投資はほぼなし。しかも、賃料は坪2000円台前半の格安だった記憶です。
現在は鶴橋大手海鮮卸のオノウエさんが入居されてます。

業務スーパーで使っていた棚をそのまま活用。すべて無料でラッキーでした(^^♪
週末は愛犬を連れて仕事、女の子ですが名前はドンドン太という名前です。
蕎麦屋に来ていた不動産のおっさんが経営不振ということで育てられないということで保護犬として飼いはじめました。
ドンドン太はピットブルとブルドッグのMIXで強かった、今は天国へ(合掌)。
欠品管理表。
物流システムが稚拙でしたので、欠品は頭で記憶か目視でチェックというアナログ管理。
商品点数1000点まではこのような運用でした。
通称mopaビル1階の梱包エリアです。
立地的には良い物件でしたが、なにぶん多層階の倉庫というのは大変過ぎました。


2008年:創業4年目に東大阪に移転
2007年に一棟ビルに移転したのですが、4階建てビルは階段移動とエレベータ―移動で物流効率が非常に悪い。このタイミングで現在の第一ロジにご縁があり、引越して1年後に再度引越となりました。
本社も倉庫もすべて移転ということで現場はかなり混乱しましたが、みんなの頑張りでなんとか移転を終えました。
このタイミングでカスタムジャパンと本社事務所統合、鶴橋部品は社名変更し日本モーターパーツへと変わりました。

第一ロジの2階はほぼ空きスペースで余裕があり、整備ルームを設置しておりました。
こちらはオプティムのデモ車両の商品撮影。
カスタムジャパンと本社事務所統合、鶴橋部品は社名変更し日本モーターパーツへ。
創業4年になるとオフィスらしくなってきました


東京モーターサイクルショー:初出展と用品店への流通
第35回東京モーターサイクルショーに初出展しました。右も左もわからない状態でしたが、初めてのB2C展示会で商品をお客様にご覧いただく機会で今でも鮮明に覚えています。
印象的なだったので、デイトナ創業者のヘンリー阿部さんがブースにいらっしゃり商品を吟味されていたのが印象的でした。
予算が限られていたので、目立つために着ぐるみを当時の社員だった中村さんに来てもらいダンスをしてパープルカウ戦略で集客した記憶がございます。


とるな、プロセレクト、MIRAX、PFP、ProTOOLs、Optimumを展示。
用品店さんで販売していただいたとるな車体カバー。
MotoParts(モトパーツ)というB2C向けのフリーペーパーを発行して用品店に設置しました。この媒体は創刊号のみとなり廃刊?となりました。
こちらも用品店の写真です。とるなのワイヤーロックはロングセラーとなってます。
東京モーターサイクルショー出展効果もあり用品店でも数多く在庫していただけました。
用品店でのイベントに出展して販売支援を行いました。


創業からの歩みと感謝の気持ち

創業から5年間の写真からいくつか抜粋させていただきました。
これらの写真を見返すと、私たちの原点とそれを支えてくださった多くの方々への感謝の気持ちがあふれます。我々カスタムジャパンはこれからも初心を忘れずに、お客様に喜んでいただける会社になるために頑張っていきたいと思います。

普段なかなか過去を振り返ることはありませんが、創業メンバーの松崎さんに貴重な写真をいただいたことで、これを今共に働く仲間と共有し、シェアすることで会社の原点やこれからの進むべき道を共通認識を持ちたいと思い、共有させてもらいました。公開した写真については一部社外秘な内容が書かれている内容もございますので、当面は社内向け共有とさせていただきます。

一定の期間、1ヶ月ほど経ちましたら、社外向けに不要な写真や文言を削除して、全体共有としてカスタムジャパンの沿革として社外向けに公開する予定です。
これから5年後から20年に至る写真はまた別の機会で沿革としてノートに記載していきたいと思います。
そしてこれから20年、30年、50年、100年とカスタムジャパンの歴史が続いていくことを祈ります。

日本モーターパーツの歴史はまもなく70年になります。
30年後、私が生きているかどうかは分かりませんが、家業を100年企業として、永続的な発展ができる組織として存在し続けることを目指します。
皆様これからもどうぞよろしくお願いします。

最後に、これまで支えてくださった全ての方々に心より感謝申し上げます。皆様のご支援とご協力があってこそ、今のカスタムジャパンがあるのです。これからも共に成長し、素晴らしい未来を築いていきましょう。


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「カスタムジャパンは今年20期目を迎えてます。売上は80億円に達し、100億円を目指していますが、現在目標を下回り、円安やコスト増の影響もあります。2024DXを成功させ新たな一歩を踏み出しましょう。B2CとB2Bの自社サイト強化、国内仕入れの最大化、お客様に喜んでいただけるロングテール戦略を推進します。お互いを尊重し合いながら全社的な情報共有と連携を強化し、成長を目指します。より良い会社にしていきます。皆さんの協力をお願いします!」


カスタムジャパングループ
村井基輝(むらいもとき)

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どうぞよろしくお願いいたします。

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このメッセージ『CJメッセージ』は、 
CJグループの皆様と会社と関係が深い方々に共有しております。




●編集後記

身内の話で恥ずかしいのですが、先代のインタビュー記事です。継いだ側の記事は比較的多いのですが、継がれる側が引退した後の記事はあまりありません。
こちらの記事を読んで、家業を継承した幸運と責任の重さを改めて受取直しました。

・記事より抜粋
「会社にしがみつくのではなく、新しい人生を歩みたい」

もともと65歳で完全に引退したいと考えていた村井達司氏は、計画通りに第二の人生へと踏み出すことができた。

 「創業者と2代目は会社に対する思いが違う。私は今、株式もカスタムジャパンのホールディングス会社にすべて譲渡し、息子の事業に口を出す権利もなければ、業績に責任もない状況。しかし、寂しさはまったく感じないし、タイミングも良かったと感じている。それも、すべて息子の事業がしっかり軌道に乗っているからこそだろう」(村井達司氏)

 一時は畳むことも考えた家業を基輝氏が継続し、発展させてくれたことに、村井氏は喜びを感じている。「どこで勉強したのか知らないが、経営能力がないとできないこと。新しい時代の商売の仕方は見ていて楽しい。厳しい世の中ではあるが、66年継続している会社をさらに発展させていってほしい」と期待を寄せる。

 「中小企業の社長には休みはない。事業をしていたときは旅行にも行けなかった。やりたいことがたくさんあった」という村井達司氏。退任後は海外旅行を楽しんだ後、水墨画や書道、落語と多彩な趣味を楽しんだり、シニアスクールで歴史や古典芸能を学んだりと寸暇を惜しんで活動している。「むしろ今の方が忙しいくらいだ」と充実した毎日に笑顔を見せる。2020年に72歳になったが、ランニングに山登りにと、村井達司氏の興味は尽きないようだ。

幼少期の二代目村井達司氏と母、金子。村井達司氏の父、吉夫が戦後、大阪市鶴橋で始めた町の自転車屋「丸竹自転車店」の前で撮影。その後、バイク部品卸販売業として法人化したのが、鶴橋部品となった。

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