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黒姫山麓の文芸家コロニイ ―松木重一郎の「児童文化村」構想と実際

2022年8月 種田元晴

*珍しい建築展

東陽町にある竹中工務店東京本店に併設されたギャラリーエークワッドで、「いわさきちひろと奥村まこと・生活と仕事」展をやっている(2022年6月3日~9月8日開催)。建築のギャラリーで絵本作家のいわさきちひろを扱うとは、なかなか興味深いことだなと思って、覗いてみた。

いわさきちひろ(1918-1974)は、長野県の北端にある黒姫高原に、創作と保養のための山荘を持った。その山荘を設計した建築家が、奥村まこと(1930-2016)であった。展覧会では、黒姫山荘を中心に、昭和の時代を駆け抜けたふたりの女性作家の生き様を浮き彫りにしている。

ふたりの足跡を確かめつつ、展覧会に取り上げるほどの黒姫のちひろ山荘の妙とはなんなのかにまずは着目したい。そして、そもそも、ちひろが山荘を建てようと思った黒姫というところには、どのような文化的背景と観光的魅力が存在するのかを、筆者がかの地へ抱く憧憬の念とともに探ってみたい。

*画家・いわさきちひろの生涯

いわさきちひろは、1918年、福井県武生市(現・越前市)に生まれ、東京に育つ。1931年に母が務めていた自由な校風で知られる東京府立第六高等女学校(現・都立三田高校)に入学。その間、艶やかな婦人像を印象派風に描く洋画家・岡田三郎助(1869-1939)に師事し、絵を本格的に学ぶ。画材や色調に対する自由な感覚はこの頃に培われたのだという。

1939年には一度目の結婚をして満州に赴くも、夫が自殺。帰国し再び書や絵に打ち込んだ。戦局が悪化すると、母の郷里の長野県松本市に疎開し、そこで終戦を迎える。

終戦後、両親はそのまま長野県に留まるも、ちひろは単身上京。日本共産党宣伝部の芸術学校で絵を学びつつ、新聞記事の絵と文、雑誌の表紙絵などを手掛けながら、画家としての歩みを始める。

1950年には共産党の活動で知り合った弁護士の卵で後の衆議院議員・松本善明(1926-2019)と再婚。健康で尊重し合える家庭づくりのための誓約書を交わす。二年後には長男が誕生し、子どもの絵を多く手掛けるようになり、やがて画家として多忙を極めてゆく。

1966年、静かな環境で仕事に集中するため、縁あって手に入れた黒姫山麓の土地に山荘を建てる。東京と黒姫を往復しながら、都会と田舎の暮らしのすべてを絵のモチーフとして作品を生み続けた。しかし、1974年、肝臓がんのため55歳の若さでみまかった。

*建築家・奥村まことの生涯

奥村まことは、1930年に東京府北豊島郡(現・練馬区)に生まれる。ちひろとは一回り歳が離れていた。

1938年には、生活すべてが勉強であるとの教育で知られる自由学園に八歳で編入。疎開の時期を除いて18歳まで在籍し、そこで他人と比べない生き方、できることは自分でやるという姿勢を身に着けた。

1949年、東京藝術大学建築科に初の女子学生として入学する。藝大では新聞部員として活躍し、毎年メーデーに参加するなど運動にも積極的であった。後に夫となる建築科の先輩・奥村昭雄ともメーデーで何度も顔を合わせていたという。

1953年、卒業の前年に、恩師である建築家・吉村順三(1908-1997)の事務所に入所し、設計実務に携わる。1972年に退所するまで20件近くの住宅作品を担当した。自由学園で培った自らの身体を通じて物事を理解する姿勢を貫き、時には施主の荷物をすべて事細かに書き出してそれに合わせた収納を設えるなど、住宅の名手である吉村のもとで生活空間を大胆かつ細やかに設計する術を磨き上げていった。

その傍らで、個人としても住宅の設計を数多く手掛けていた。その中に、いわさきちひろの山荘や東京の家の改修も含まれている。当時の吉村事務所では、業務に支障のない限り、時間外の所員の設計活動に寛容であったらしい。

1955年、藝大営繕課に勤めていた奥村昭雄(1928-2012)と結婚する。こちらも、健康で尊重し合える家庭づくりのための「憲法ノート」を作成している。2年後には長女が誕生した。

昭雄は翌年、吉村事務所の所属となるが、まこととは別のプロジェクトを手掛けていた。そして、1968年には、昭雄は藝大の教員となる。1972年、まことの退所を機に二人の設計事務所をつくり、最晩年まで仕事を共にした。昭雄は2012年に逝去、まことは2016年に世を去った。

こうしてみてみると、自由な教育、新聞や運動とのかかわり、創作と育児の両立、夫との対等的な誓約、日常のひとコマに対する深い洞察など、ちひろとまことの生き様には共通するところが多々あることがわかる。ふたりが出会って意気投合するのも自然なことであったと思えてくる。

*ちひろの黒姫山荘

黒姫童話館敷地内に移築された「いわさきちひろ黒姫山荘」の北側外観(撮影:筆者)

いわさきちひろの黒姫山荘は、もともとは、妙高へと続く県道119号線沿いの山荘集落内に建っていた。土地はカラマツと白樺に囲まれた山の斜面の一角で、ここからは、県道を挟んで南東に野尻湖を見下ろすことができた。ちひろは、この眺望を気に入って、まことに設計を依頼するにあたり、野尻湖が望める大きな窓が欲しいと要望したという。

設計を請け負った奥村まことは、ちひろの希望に従って、室内に廊下を設けず、玄関、居間、小上がりの和室、画室が続き間となった回遊性のある正方形平面を採用した。コンパクトで無駄のない生活動線を確保して、創作に専念できる環境を整えたのである。

和室側から望む「いわさきちひろ黒姫山荘」の居間。
写真左側の大きな窓から野尻湖がかつては望めた。(撮影:筆者)

そして、ちひろからの要望に応えて、南側に面する居間と和室に大きな引き違いの掃出し窓を設け、野尻湖への眺望を確保した。その建築時には、やぐらを建てて湖が見える高さを測って床の高さを決めたという。北側の小さな玄関扉から、正面の幅の絞られた居間の入口を抜けると、目の前に大きな窓が一気に開けるという構成は、見事なものである。

しかし、山荘の周囲のカラマツ林の生長のスピードが思いのほか早く、ほどなくして湖は隠れて見えなくなってしまったという。湖を見ながら絵を描きたいとちひろは強くこだわっていたので、竣工から5年後の1971年に小屋裏状の2階を増築し、そこに画室を設けることとした。

黒姫山荘が建っていた土地には、下水道がない。したがって、便所は汲み取り式となるのが通常の解法である。しかし、生活環境の快適性を考えれば、当然、水洗とするのが望ましい。まことは、屎尿浄化槽を設置することで、ちひろ山荘のトイレを水洗化した。

ちなみに、まことの師である吉村順三の代表作「軽井沢の山荘」(1962)にも水洗トイレが設置されていた。師の仕事からの学びを生かして、まことはちひろ山荘を手掛けたのだった。

なお、いわさきちひろの黒姫山荘は、現在は、高原の一角に建てられた黒姫童話館の屋外観覧エリア内に移築されていて、内部が見学可能である。

ところで、安曇野ちひろ美術館にも、いわさきちひろの黒姫山荘の実寸大レプリカが建っている。しかし、こちらは中には入れない。また、内部の設えもオリジナルとは若干異なっている。

さて、移築されたちひろの山荘前にある黒姫童話館の解説板によれば、ちひろが「この作品は、どうしても黒姫の山荘で描きたいの。」と言って制作したのが、宮沢賢治『花の童話集』(1969)の作画であったという。

賢治の愛した岩手山と黒姫山は、ほぼ同じかたちをしていて、高さもほぼ同じである。ちひろの子息でちひろ美術館の顧問である松本猛氏によれば、ちひろは、賢治の作品を暗唱しつつ、猛氏を連れて黒姫の径を散歩していたという。黒姫山を岩手山に見立てつつ、賢治が愛した風景に想いを馳せて、作品を仕立てあげたのだった。

居間にある猪谷式薪ストーブは、ちひろの作品「ストーブに薪をくべる少女」(1973)のモチーフとなっている(猪谷式薪ストーブについては中村謙太郎氏の記事に詳しい)。また、玄関脇にあって大きな窓が開いた五角形の浴槽を持つ風呂場は、雷雨の日に風呂に浸かっていたところ、窓際にうさぎが雨宿りに来たことから「兎ぶろ」と名付けられたのだという。

ちひろの黒姫山荘には、随所に物語性があふれているのである。

*「働く母の会」を通じた出会い

いわさきちひろと奥村まことは、ともに手の職をもち、自立した作家であった。同時に、弁護士/国会議員の夫、あるいは、建築家/国立大学教員の夫を支え、一人っ子を育てる母としても奮闘した。

戦時中、出征する男性に代わって、女性が勤労者として多数動員されることとなった。しかし、戦後、復員した男性が労働の現場に戻ってくると、女性は職場を失ってしまう。戦前には奉仕であった勤労は、すでに権利へと変化していたのだ。このような背景を踏まえて、1947年に制定された労働基準法のなかで、女性の労働機会が保護された。そうして、女性労働者の数は戦後益々増加していった。

ちひろやまことが活躍をはじめる1950年代になると、産休等の法整備も進む。しかし、とくに3歳未満児を預けられる保育園がほぼないために、実際の現場では産休取得は憚られた。働く女性は、仕事に生きて子を諦めるか、母になり職場を去るかとの決断を強いられる状況であったという。

1950年代、ちひろはすでに勤務労働者ではなかったが、まことは事務所に所属する身であった。吉村事務所は小さなアトリエであったので、産休の制度などもちろんない。とはいえ、吉村にまことは直談判し、産前2ヶ月の産休を得たという。しかし、産後はそううまくはいかなかった。そこで頼りにしたのが、「働く母の会」であった。

「働く母の会」は、女性が出産後に仕事を続けられるよう、地域の有志の自宅等に無認可の保育所を設置するなど、保育環境づくりに邁進した団体である。会の創設者は岩波書店婦人部の小林静江で、1954年末に発会された。

奥村まことは、「働く母の会」の西武池袋線グループに所属し、乳児であった娘を会がつくった共同保育園に預けて仕事を続けた。

奥村まことの半生を研究する村上藍氏によれば、まことは、西武池袋線グループでの活動を通じて、編集者の川井千恵子と出会い、親しく付き合ったのだという。川井は、ちひろとおなじ黒姫の県道119号線沿いの山荘集落内の仲間であり、編集者としてちひろとはそれ以前から懇意であったようである。なお、ちひろ山荘に先駆けて、まことは、川井の黒姫山荘の設計(1965)も手掛けていた。

こうして、川井の仲立ちにより、いわさきちひろと奥村まことは出会い、そして意気投合する。黒姫山荘をはじめとして、ちひろはまことに、石神井の自宅(現存せず/跡地は「ちひろ美術館・東京」となっている)の増築(1970)、そして没後に竣工した伊豆熱川の山荘(1974)の設計を依頼するほどに惚れ込んだのだった。

*作家・坪田譲治と「黒姫山荘の会」

いわさきちひろと川井千恵子の山荘は、県道119号線沿いの同じ別荘集落に位置している。ここは、児童文学作家や画家、研究者などで構成される「黒姫山荘の会」によって自治された、18戸からなる文芸家コロニイなのであった。今もほぼ当時のままに、かの地に現存している。

コロニイが誕生したのは、1964年のことであった。キーパーソンとなるのは、児童文学作家として名高い坪田譲治(1890-1982)である。

坪田は戦時中の疎開先として、野尻湖畔北西部に別荘を建てて、10年あまりの間ここで執筆活動を行った。戦後になると坪田は、この別荘を信濃町に寄付した。坪田山荘の跡地には国民宿舎が建つが、その一角には今も「心遠きところ 花静かなる 田園あり」と刻まれた詩碑が立っている。

坪田の寄付に対し、ときの信濃町長・松木重一郎(1915-????)は、その見返りとして、大特価で坪田に自身の所有する土地を代替地として提供することを申し出た。その代替地こそが、「黒姫山荘の会」による県道沿いの文芸家コロニイの土地だったのである。野尻湖とは北国街道を挟んで西側の黒姫山麓に位し、地名は山桑という。

野尻湖より望む黒姫山(撮影:種田)

*松木重一郎の「児童文化村」構想

野尻湖畔はもともと、軽井沢で避暑生活を送っていたカナダ人宣教師らが、軽井沢の観光地化による喧騒から逃れて、1921年に新天地として選んだ地であった。野尻湖畔南西部の神山地区に位置する「野尻湖国際村」として、その別荘群の佇まいが現存している。国際村の別荘の多くは、軽井沢の別荘も数多く手掛けたウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)によって設計された。

さて、坪田が代替地を提案された当時の信濃町では、大正末期から続く外国人宣教師たちの「野尻湖国際村」に対抗して、邦人を呼び込むための別荘村計画が画策されていた。まさに軽井沢の二の舞といったところである。

その一環として、1964年、野尻湖の北西部には邦人学者たちの別荘地である「野尻高原大学村」の創設が発案された。そのマスタープランは、食寝分離の提唱者として名高い建築計画学者・西山夘三(1911-1994)が作成し、1966年にはセミナーハウスが竣工している。

同じく1964年になされた町長から坪田への代替地の提案も、その知名度を借りてその門下、知人らの児童文学作家の集まる別荘村をつくり、児童文化村として観光資源的に価値づけたいとの意図があったようである。

*画家・赤羽末吉の奮闘

しかし、坪田自身はこの代替地を利用しなかった。そこで、坪田の知り合いのどなたかにという話になったところを、スケッチ旅行に立ち寄っていた絵本画家の赤羽末吉(1910-1990)が耳にした(以下、赤羽末吉が「黒姫山荘の会」の会員向けに記録した「黒姫山荘ことのはじめ」を参照して記述)。

松木町長からの申し出は、木のあるところは坪200円、木のないところは坪100円という破格の安さであった。電気は近くにあった小学校の分校から引き、上水は沢からとるというもので、下水道は引かない方針だった。電気や水を引くにしても、20軒程度は集まらないと成立しない。そこで、赤羽が知り合いの児童文学関係者に声をかけ始めた。

そうなると、町長の持っている土地だけでは一軒当たり100坪程度となってしまう。せっかくの大自然の中であるのに、それでは都会の土地と変わらない。そこで、もはや代替地だけでは足りないということになり、その周辺の土地も新たに購入して、地域の振興・発展のための土地開発としようという大きな話になっていった。

それにしても、先の価格はあまりにも安い。安すぎて、これは騙されているのではないかと不安に思った人もいたという。いわさきちひろの一家もそのひとり。しかし、騙されるにしても被害が少なすぎるということで、岩崎&松本はこの敷地に別荘を建てることにした(これは猛氏の談)。

そんなことで、「はいった」「やめた」が延々と繰り返されて、なかなか20軒集まらなかった。これでは、早期に申し込んだ人がずいぶん待たされることになる。

そこで、赤羽はついに、児童文学関係者だけに声をかけることをあきらめた。友人の医師に相談し、そのつながりで医者数名が場所も見ずに即決してくれた。そうして、なんとか3年かけてようやく20人が集まったのだった。

この時点で、松木重一郎の構想していた「児童文化村」は、純粋なかたちでの実現は叶わなかったことになる。それでも、松木町長は、所有者の入り乱れた土地を購入し、土地の登記を行い、電気・水の工事を手配するなど、面倒な手続きを一手に引き受けた。土地の測量に至っては、その免状を町長がもっていたので、部下とともに奉仕としてやったのだという。

*文芸家コロニイとしての「黒姫山荘の会」

さらに、その後、山荘を建てなかった人が土地を手放し、すでに建てた人やその知人の学者が購入するなどして現在のメンバーによる「黒姫山荘の会」が結成された。いずれにしても、静かな創作の場として過ごすことを共通の理解としてもてる人々が会員となった。

先の医者らも、新たに加わった学者らも、児童文学とは直接かかわりはないが、しかし、みな文筆を得意とする人々であった。松木の「児童文化村」としての構想は未遂に終わったが、しかし、文芸に関わる人々の創作の場であることには変わりはなかった。

かくして、いわさきちひろ(画家)、吉崎正巳(画家)、いぬいとみこ(作児童文学作家)、岡野薫子(児童文学作家)、赤羽末吉(画家)、柿本幸造(画家)、木川秀雄(画家)、川崎春彦(画家)、山本まつ子(画家)、太中弘(医者)、弓野勲(医者)、川井利長(学者)・千恵子(編集者)、原子朗(学者)、内田星美(学者)、神山裕一(編集者)、島津直子(編集者)らの児童文学作家、画家、学者、医者、編集者などによる文芸家コロニイが形成された。

コロニイの管理は、山荘の施工を請け負った古間の工務店・佐藤工務所が引き受けた。「黒姫山荘の会」では毎年当番担当者を決めて、ゴミ処理、村落内の道の草刈り、雪下ろし、侵入者への対応などを、佐藤工務所にお願いしている。会員相互の連絡は「黒姫通信」を発行して行った。

その後、この環境を守るために、自然豊かな環境を共有するため敷地境界には塀を設けないこと、静かな創作の環境を守るために商業目的には使用しないこと、騒音をたてないこと、譲渡された場合には黒姫山荘の会に加入すること、村落内の維持管理・整備などに関する公共費は全員で分担することなどを定めた10箇条の申し合わせ事項が定められた。

都会の喧騒を離れて創作に打ち込むことの出来る理想郷となった「黒姫山荘の会」によるコロニイは、会員相互の協力によって、その環境が半世紀にわたって保たれたのだった。

*文芸家コロニイの記憶とその継承

 黒姫・野尻湖(旧・柏原宿)は、文学的にはもともと、俳人・小林一茶(1763-1828)の生誕・終焉の地としてよく知られた場所である。しかし、坪田譲治や「黒姫山荘の会」の作家たちの文芸活動の場であったことは未だあまり知られてない。

1964年当時の松木町長の目論見ははずれ、文芸家らの招聘は、結果として観光振興にはむすびつかなかった。しかし、「黒姫山荘の会」のメンバーたちは、この場所を愛し、互いに親交を深め、そして数多くの名作を生み出した。その作品とともに、作品が生み出された場所の記憶もまた、文化的事象として後世に残すべき重要な遺産である。

「黒姫山荘の会」のメンバーも、その多くはすでに鬼籍に入られてしまった。そして、信濃町は高齢化・過疎化の一途をたどっている。まさに今、この豊かな文芸家コロニイの記憶が失われつつある。

鍵は、筆者の世代がいかにこれに関心を抱くかであると思っている。筆者の祖父母は「黒姫山荘の会」の一員であった。筆者にとっても黒姫山荘は、幼少の頃より連れられて親しんだ、第二の故郷といえる場所である。その郷愁に駆られながら、その一角に祖父母が残した山荘を再生するなど、空間を設えることを通じて物語る建築学徒らしいしぐさで、この地に文芸家たちが刻んだ記憶を継承していきたいと考えている。

再生を待つわが黒姫山荘(撮影:筆者)

参考文献:
・「いわさきちひろと奥村まこと・生活と仕事」展図録, 公益財団法人ギャラリーエークワッド, 2022
・村上藍『奥村まことの生涯とその設計』私家版, 2021
・中塚良子「「働く母の会」と丸尾ひさの乳児保育実践研究」豊岡短期大学論集(18), pp.245-254, 2022
・西澤倫太郎他「野尻湖における外国人別荘地「神山国際村」の成立と展開」観光研究3(1-2), pp.1-8, 1989
・内田文子「敗戦前後と引き上げてから~夫と共に48年」『ぬえの足あと 内田星美先生古稀記念文集』東京経済大学葵星会, 1998
・岡野薫子『黒姫山つづれ暦』新潮社, 1985
・松本猛(いわさきちひろ・絵)『ちひろのアトリエ』新日本出版社, 2004
・赤羽茂乃『絵本画家赤羽末吉 スーホの草原にかける虹』福音館書店, 2020


 

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