見出し画像

宮城調常 ー上原清吉の弟子ー

最近、昔の資料を調べていたら面白い記事を見つけた。それは宗家(本部朝正)の友人で、昔上原清吉に師事していた普久原朝盛ふくはらちょうせい氏の道場「盛道館せいどうかん」が出していた道場新聞『盛道会だより』(第3号、昭和57年6月30日)の記事である。

なぜこれをもっているのかというと、筆者は子供の頃、普久原先生の道場に通っていたからである。

普久原道場「盛道館」、1979年。2列目右から5人目が筆者。

さて、昭和57年(1982)に沖縄から上原先生を招待して大阪で演武大会を開催することになり、それを記念して懇談会が開かれた。そして、その様子が上記の新聞に掲載された。

そこで、出席者の1人、宮城調常みやぎちょうじょう氏が上原先生との出会いを以下のように語っている。

宮城先生 「私は、もう古いのですよ。私が沖縄に居た時、朝勇先生方に出入りしていた頃から、私は存じ上げていました。朝勇先生が将来を頼もしく思っておられた方ですからね。」

宮城氏は明治35年(1902)生まれで、首里の出身だったが戦前大阪府貝塚市に移住して、宗家の家の近所に住んでいた。沖縄時代、空手を本部朝勇に師事していて、それで上原先生のことを当時から知っていたわけである。宮城氏によると、上原先生は本部朝勇から将来を期待された弟子であったという。

写真:左から本部朝正家族、上原清吉、1人飛んで宮城調常、大阪、昭和51年

上の写真には子供の頃の筆者も写っている。当時、宮城氏は普久原道場の顧問もしていた。また、琉球舞踊の師匠もしていて、沖縄県出身者の集まりなどがあると、踊りを披露していた。

上原先生が1990年代になってメディアに取り上げられだすと、「本部朝勇は実在しない」、「実在したが武術は稽古していなかった、単なる三線弾きだ」、「上原清吉が本当に本部朝勇の弟子かあやしい」等と誹謗中傷する声があった。

一つ言えることは、彼らは一人も取材には来なかったということである。したり顔でさも真実を知っているかのように語っていたが、実際は何も知らず、調べず、ただ沖縄で聞いた出所不明の噂話を垂れ流しているだけであった。本部家に取材に来れば、宮城調常氏のことも紹介することはできたのである。

宮城氏以外にも、本部朝勇の弟子だった高嶺善継がいたし、植物学者で添石家の血を引く多和田真淳氏も子供の頃、本部朝勇の取手を見ていた。上原先生によると、「かなぐすくぬヤッチー」こと、金城ケンセイ氏という人物も本部朝勇の弟子にいたそうである。筆者は金城兼盛氏のことではないかと推測している。

ちなみに、宮城氏は本部朝勇のもとでサンチンを習っていたそうである。いま本部御殿手で元手と呼ばれている型はかつてサンチンと呼ばれていた。首里サンチンの一種である。

いずれにしろ、実際に本部朝勇に師事した人物が上原先生が朝勇先生から将来を期待されていたと証言しているわけだから、宮城調常氏の発言は貴重である。

出典:
「宮城調常」(アメブロ、2023年9月17日)。note移行に際して加筆。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?