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【ミステイク・フェイド・オーヴァー・タイム】

この小説は『ニンジャスレイヤー』の二次創作です。(12573文字)

「看板メニューを作りましょう!」

客が去り、無人となったピザ・タキ店内。テーブルを拭き終えたコトブキが出し抜けに言った。タキはポルノ新聞から顔を上げ、問い返す。

「アア? 何がだ?」

「だから、看板メニューです」

「どこの?」

「もちろんピザ・タキのですよ!」

「アア?」

タキは耳を疑った。コトブキは大げさに腕を広げて言った。

「革新的な看板メニューで集客! 企業努力ですよ!」

「そりゃ結構だ。だがウチには要らねぇ」

タキは刺激的なバニー・オイランに視線を戻した。タイトなバニースーツの表面積は相当に小さく、見えそうだ。彼は目を細め、凝視する。コトブキは食い下がった。

「どうしてですか? いい案だと思ったんですが」

「うるせぇな。今いいとこなんだよ」

「でも経営問題ですよ!」

「ああ、うるせぇ……!」

大きな音を立てて乱暴にポルノ新聞をたたむと、タキは指差しを交えて続けた。

「いいか、ウチの店は一応ピザも売ってる。だがメインは情報だ。わかるな」

「わかります」

「つまり、ピザはオマケだ。オマケにいちいちこだわるか?」

「こだわります」

「ブルシット!」

タキは吐き捨てた。

「あのな、ウチの店に来てる連中は、ピザの味なんざ二の次、三の次だ。どうでもいいんだよ」

「どうでもよくはありません。それに」

コトブキはタキを真っ直ぐ見て言った。

「タキ=サンはピザにこだわりがあります」

「アア?」

突然何を言い出すのか。タキは目を丸くした。

「ねえよンなもん」

「ならば何故ピザ店をオープンしたんですか?」

「そりゃお前……」

セルフでやらせれば楽だから。そう言い切りかけたタキは、妙な違和感を覚えて言葉を詰まらせる。

(なんだ?)

そう、楽だから。それだけだ。それだけなのに、どこか妙に引っかかる。適当な理屈が喉元で交通渋滞を起こしている。不愉快だ。タキはそれを吐き捨てるかのように言った。

「……楽だからだ。手間が掛かんねえからだ。見てりゃわかんだろ。こだわりなんて微塵も……」

カランカラン!

その時ピザ・タキのドアが開き、短髪の若い男が足を踏み入れた。タキは露骨に嫌そうな顔をした。コトブキは振り返り、笑顔で手を振った。

「オハヨ! ニンジャスレイヤー=サン!」

ニンジャスレイヤー……マスラダ・カイはコトブキを一瞥すると、タキへとぶっきらぼうにフロッピーを差し出した。

「戻った。これが例のものだ。スシはあるか」

「あのな、お前」

タキは受け取り、眉根を寄せる。彼はオーバーなため息のゼスチュアを交えて続けた。

「いまいち分かってねえみたいだから、もう一度教えてやる。ここはピザ屋で……」

「スシはどこにある」

「真面目な話だ。そこに座れ」

タキは客席を一つ指で示した。ニンジャスレイヤーは無言でタキを見ていた。座る気配は案の定、ない。

「少しは俺の話を……」

「どこだ、タキ=サン」

「……冷蔵庫だよ。だが俺の話が先だ。犬みてえにがっついてンじゃ……オイ!」

タキは背中に呼び掛けた。だがマスラダはまるで構わず、悠々とスシ・パックとショーユを取り出すと、空いた席で食べ始めた。

「ダムシット! あの野郎……は……」

タキはニンジャスレイヤーを口汚く罵ろうとした。その瞬間、コトブキを思い出し、視線を向けた。コトブキはカウンターに頬杖をつき、とてもニコニコとした笑顔でタキを見ていた。タキは唸った。

【ミステイク・フェイド・オーヴァー・タイム】

黒い雲から、白い雨が降り注ぐ。ネオサイタマ、テジヤマ地区には色調を押さえたビジネスビルが立ち並ぶ。無機質なモノトーンの風景の中には、奥ゆかしいネオン傘の輝きすらも鮮烈に映る。太陽は雨雲に遮られ、ゴミ山の中で光る懐中電灯のように心許ない明かりを地上に降り注がせていた。

重金属酸性雨の中、テジヤマの往来を行き交うのは色とりどりのネオン傘を掲げた人々だ。その大半は昼休みのサラリマンやオーエルであり、それも年若い。『雨の日なら人も少ないだろう』……そう判断し昼食に出かけた彼らは、前後左右を同じ考えのものらに囲まれ、一己の群体生物めいて歩きながら気まずそうに携帯IRC端末をつついていた。

「困りました」

過剰密集したネオン傘の群れが、カラフルな波めいて歩道を流れる。淡い黄色のレインコートを着たコトブキもまた、オレンジのネオン傘を掲げ歩きながら独りごちた。

ピザの材料を買いに出たコトブキは、当初近場のスーパーに向かうつもりだった。だがその途中、奇妙なサラリマン群体に好奇心をくすぐられた彼女は何気なく列に加わり、流されるままにここまで来てしまったのだ。

「ここはどこでしょう」

左右を見渡しても、映るのは傘の裏地ばかり。正面はサラリマンたちの背中に遮られ、背後に振り返るほどのスペース猶予はない。彼女の視野は常人よりも広くクリアであったが、それでも何も見えなかった。

「どこまで行くのでしょう……」

コトブキはコンベアに流されるように歩き続けた。周囲のサラリマンはときおり道路沿いの飲食店や路地に吸い込まれていくが、すぐにその後ろのサラリマンが小走りで列を詰めるため、結局彼女が行動する隙はない。列から抜け出せぬまま、5度目の横断歩道に差し掛かかったころ……ちょうど彼女が踏み出す前に、信号が点滅し始めた。

瞬間、完璧なマスゲームめいてサラリマンたちは一斉停止した。余分に一歩踏み出したコトブキは慌てて後退りする。その右後ろから、別のサラリマンが駆け出した。

「スミマセン、スミマセン! アイエエエ!」

周囲にチョップめいた動作を繰り返しながら出てきたサラリマンは、息を切らせて横断歩道を走りきった。無論、これは非マナーのみならず極めて危険な行為だ。赤信号になれば、誰かが彼を轢き殺しても自己責任の一語で片付けられ、社葬が行われることもない。むしろ遺族に賠償金が請求される可能性すらある。それでも彼のように、昼休みの1分1秒を惜しんで走り出す人間は少なくなかった。

前方のサラリマンが去り、視界が広がった。コトブキは重金属酸性雨を不可視化し、通りを見渡した。往来は完全なる一本道であり、ビルとビルの間に枝めいて脇道が続くのみ。そして見知らぬ町で脇道へ入るなどという行為は、バイオパンダの入った檻に裸で入り、餌のバイオバンブーにかじり付くがごとき愚行だ。信号が変わっても、しばらく彼女が渋滞から解放されることはないだろう。ではどうすべきか。やがてコトブキは口を開いた。

「スミマセン」

「エッ?」

突然隣の美しい女性に声を掛けられ、その若いサラリマンは反射的に聞き返した。彼は2、3度バツが悪そうに周囲を見て、それがやはり自身に向けられた声だと分かると、おずおずと答えた。

「俺……だよね」

彼の目には隠しきれない猜疑の色がにじむ。「まず疑ってかかるべし」それはいつの時代も変わらぬ、マッポーのモースト・ベーシック・メソッドである。そして相手の見た目が良ければ、警戒心はさらに強まる。ツツモタセやオイラン詐欺、サイバネ・カツアゲマン……心を許せばつけ込まれる。既にコトブキとサラリマンの周囲からは、膜めいて薄い壁があるかのように、わずかな距離が空いていた。

「何か用?」

彼は緊張をにじませぬように注意しつつ答えた。しかしどこか浮いた雰囲気の女性は、ベニバナめいて明るい笑みを向け、事もなげに尋ねた。

「私、スーパーに行きたいんです。方角を教えてくれませんか?」

「エッ……」

彼は呆気にとられた。それは小学校時代を思い出すような、打算のない自然な笑みだった。だからサラリマンは、相手の裏の意図を勘ぐることもなく、ごく自然に答えていた。

「その……東だよ。あまり大きくないけど」

「東ですね。ありがとうございます!」

「あ、うん……」

コトブキは礼を言い、視線を戻した。サラリマンは目をぱちぱちと瞬かせ、彼女の方を少し見た。そして本当に道を聞かれただけなのだと察すると、えもいわれぬ居心地の悪さを覚えた。

(俺、素っ気なかったかな。彼女を傷つけちゃったんじゃ……いや、待て。そこまでが彼女の手口かもしれない。俺から声を掛けるのを待って、そこからパワーウォーターとか保険契約の話に……)

テジヤマの信号は長く、彼が懊悩する僅かな間もひっきりなしに車が通っていく。彼は早く信号が変われと心の中で祈り……沈黙に耐えかね、最終的に自ら声を掛けた。

「ね、ねぇ、君」

「どうしました?」

コトブキが振り向くと、レインコートのフードの下で美しいオレンジの髪が揺れた。サラリマンは一瞬見惚れたが、すぐにかぶりを振って尋ねた。

「アー、このまま真っ直ぐ行くのかい?」

「ええ、そうするしかなさそうですから」

「それは……」

ティロン、ティロン、ティロン……その時、信号が変わった。ジングルが流れ出すとほぼ同時、人の波は再び流れ始める。コトブキとサラリマンも当然その波に乗った。彼らは歩きながら会話を続けた。

「……やめておいた方がいいよ。交差点はだいぶ先だから」

「そうなんですか?」

「ああ。僕はこの辺りに詳しいんだ」

サラリマンは胸を張り、フレンドリーに笑いかけようとした。しかし歩幅を緩めた瞬間、後ろの傘がぶつかり、衝撃でメガネがずれた。

「アイエッ! スミマセン!」

「危ないですよ!」

コトブキが慌てて心配する。サラリマンは苦笑し、メガネの傾きを直しつつ言った。

「あ、ああ、済まない。はは……それで、道なんだけど」

「道?」

「うん、東への。流れに乗るとどこまでも歩いちゃうから、もう少し先で曲がるといい。フィットネスジムとウドン・ヌードル店の間……ほら、あそこの……文具屋通りがあるんだ。お昼時以外は人気が多いから、危険は少ないと思うよ」

「なるほど。わざわざありがとうございます!」

コトブキは笑顔で礼を述べた。例の看板はすぐに見えてきた。話を聞いていたのか、コトブキの右側のサラリマンたちがそれとなく隙間を作る。

「それでは、良い一日を」

「ああ、気をつけて」

不思議な女性が去っていくのを横目で見送ると、サラリマンは何事もなかったように歩き続けた。そしてその直後。

(……ア。俺の昼飯……)

ヌードル店を過ぎ、気づいた。今日はウドンの気分であり、目的地もそこだったのだ。彼は自分の間抜けさに苦笑する。

(でも、しょうがないよな)

それでも彼はなぜか、妙に誇らしい気持ちを感じていた。


◆ ◆ ◆


「遅っせえな。買い物一つにどれだけ時間かけてやがるんだ」

カウンターに足を乗せ、椅子の背もたれにもたれかかりながら、タキは呟いた。オイラン・ポルノ新聞にはもう飽き、ホットな子に丸印をつけて放り捨てた。することもないのでポカンと口を開け、天井を眺める。少し汚れてきた気もする。しかしコトブキが来る前は薄汚いのがデフォルトだったため、タキにはそれが世間的にどの程度の汚れかわからない。

(帰ってきたら掃除させるか)

経営者らしく考える。

(にしても、こだわりか)

コトブキの指摘は、まるで的を外している。タキはそう考えていた。ピザ・タキのメインは情報だ。そして情報とは、人の口を介して伝わるものだ。店を構えていれば人が来る。客との会話、客同士の会話……そこにタキは目敏く耳を傾け、有益な情報を拾う。ピザはあくまで会話の潤滑油であり、客が店に集まる動機付けに過ぎないのだ。

それは客側も同じだ。ピザ・タキに来れば誰かがいて会話を楽しめるし、それなりに美味いピザも食える。裏を返せば、それがタキの店に求められる全てだ。手間暇かけてピザを美味くしようと大して意味はない。むしろ万一ピザの味が評判になり、観光客気取りのアホが来る様にでもなれば商売の邪魔ですらある。今でもそういうアホは稀に来るが、タキはその都度丁重に追い返している。

そう、その程度。こだわりなどない。ニンジャスレイヤーへのあの怒りは、奴が店長たるタキの定義を蔑ろにしている、すなわちピザを食う店でピザを食わないことへの怒りに過ぎず、ピザに特別性などないのだ。だが……何かが引っかかる。

(なんだろうな)

タキは胸のざわつきに問いかける。ピザ。IRCフォーラムの検索欄に打ち込むように、記憶の中から情報を手繰り寄せる。ピザを食う友達。ピザを拒否するイカれたニンジャ野郎。スーパーの冷凍ピザコーナー。宅配のアドレス。コトブキ。最近のものばかりだ。もっとだ。もっと過去へ……


◆ ◆ ◆


「よう、ユビ」

「アア?」

狭く臭い、分厚いブラウン管モニターと配線だらけの薄暗い部屋。タキの姿はいつの間にか彼の姿は一回りほど若返っていて、年上の先輩ハッカーを睨みつけていた。先輩はPVC袋を掲げ、粗悪オキアミ・バーと缶入り飲料を取り出した。

「メシだぞ、ほら」

彼が投げ渡そうとしたそれを、タキは空中で引っ叩いた。缶入り飲料が安物の合成マットに跳ね、転がり、ハッカーの靴先にぶつかった。彼はそれをゾッとするほど冷たい目で見ていた。

「……ア?」

「俺の名前はユビじゃない。タキだ」

タキは精一杯の怒りを込め、その大柄な男を睨みつけ、震えた声で罵った。

「ユビってのは、そのマットのことかよ?」

「イヤーッ!」

「グワーッ!」

SLAM! 平手だ! タキはしたたか殴られ、後頭部をブラウン管モニターにぶつけた! ムゴイ!

「ウ……」

「このクソガキが、俺をナメてやがんのか……!」

ハッカーは怒りもあらわに幼いタキの胸ぐらを掴んだ。タキは痛みに泣き叫びたい気持ちを抑え込み、必死に罵倒の言葉を探した。その時だった。

「やめな」

薄汚い戸口から2人に声がかかる。ハッカーは振り返り、その少女を見下ろした。タキの胸ぐらを掴んだままに。

「タキ、アンタがだよ」

少女は冷静な声で言った。

「……姉貴」

タキが呻く。少女は先輩ハッカーに頭を下げた。

「スミマセン、タキには私からよく言っておきますので。どうか」

「……チッ」

ハッカーは少女を威圧するように睨む。怒りはまだ収まっていない。だがガキどもはクランの所有物であり、可愛がる馬鹿もいる。殺害すれば責任を問われるだろう。

「いいだろう。よく言っとけよ、ユビにな」

「言っておきます」

「よし」

男は手を離した。ドスンと音を立て、タキの体が硬いマットの上に落ちた。男はPVC袋を放り捨てて退室し、ドアが閉まった瞬間、タキは床を殴った。その頬を姉が張った。

「無駄だからやめな」

「でも」

「でももない。……とにかくメシでも食いなよ」

少女はPVC袋を拾い、新たなオキアミ・バーをタキに手渡した。

「ほら、タキ」

タキはひったくるように、姉貴の手からバーを奪った。姉は自分の分を拾って食事を始めた。粗悪とはいえオキアミ・バーの栄養価は高く、その味と食感を除けば、実際彼らのような育ち盛りにも適している。少女は合成オレンジ飲料の蓋を開け、えぐみを流し込んだ。タキはバーを握りしめ、呻くように言った。

「……なんでアイツら、俺をユビって呼ぶんだ」

バイオイセエビの殻を剥いて育った。だからタキの指先は黒い。それは他所から99マイルズ・ベイにやってきた、このハッカー・クランの他の誰もが持ち合わせない特徴である。ゆえに彼らは、それを面白がる。特に悪辣なやつは面白がり、あざ笑う。

「さあね……何にせよ、今は耐えないと」

少女は口を濁した。彼女もまた外部の人間に過ぎず、タキとコンプレックスを共有してやることはできないのだ。

「怒りを堪えて、やり過ごす方法を覚えて」

「分かってる」

「ご機嫌を取れとまではいわない。でも、技術を身につけないと、アタシもアンタも永遠に大人の下なんだから……」

「分かってるよ!」

タキは声を抑えて怒鳴った。扉を隔てて、美味そうな香りが流れてきた。ピザの匂いだ。彼はかつて先輩の気まぐれで一切れだけ食べさせてもらったことがあったから、その美味さを知っている。だから余計に腹の虫が疼いた。

見習いのうちのメシはオキアミ・バーだ。クランの長はそう言っていた。ハッカーとしての技術が骨に染み込むまで食事の楽しみはない、ということらしい。それから一年経つ。いつになれば一人前と認められるのか。あのクソ先輩野郎のニューロンでも焼けばいいのだろうか。

「クソッ……」

タキはオキアミ・バーをかじる。いつもよりさらに塩っぱい味がする。えぐみが舌にまとわりつき、惨めさを……「オイ」……


◆ ◆ ◆


「……開いてるか? タキ=サン」

「……アア?」

タキは問い返す。来客だ。いつの間にかポルノ新聞で顔を覆い、寝てしまっていたようだった。目の前にはスキンヘッドに「米」のタトゥーを入れた大柄な男。

「運がいいな、営業時間内だ」

「おお、そりゃツイてる」

客はどっかりと椅子に腰掛けた。彼はタキの友人であり、その性格にある程度慣れている。

「マルゲリータ・ピザをくれ」

「アイヨ」

タキは立ち上がり、冷凍庫からピザを取り出した。そういう気分だったからだ。そしてシュリンクラップを取り外し、オーブンに入れる……タキがピザを焼く全工程だ。

「コーラもくれ」

「ざけんな、セルフで取りやがれ」

「お前の方が近いだろ?」

「チッ……」

ぶつくさ言いながらコーラを2本取り出し、客席へ向かう。なんて仕事熱心なオーナー様だ。タキは心中で己を褒めた。

「焼けるまで暇だろ。くだらねえ話でも聞かせろ」

「おう」

客は笑った。


◆ ◆ ◆


そのスーパーの天井は高く、気流に乗った大型フリーザーの冷気が店内を心地よく冷やしていた。陳列棚にはその広さにふさわしい多種多様な品……生鮮食品から缶詰、日用品、弾薬に至るまで……並んでいるが、陳列の妙か、客が圧迫感を覚えることはあまりない。惣菜コーナーから流れてくるショーユと揚げ油の野暮ったい匂いを感じながら、コトブキは買い物カートを引き出した。

「小麦粉、チーズ、卵にバター、それと……」

彼女はメモを見ながら、キョロキョロと棚を見渡し、目当ての品を探すが見つからない。とにかく種類が多いのだ。「粉末」とだけ表記されたコーナーには、粉末ZBRとプロテインばかりが並列されていた。凄まじいバリエーションだが、その全てが無用の長物である。

「ウーン」

通りを抜けると肉類売り場。コトブキはサラミを探そうとするが、置いていない。加工肉コーナーには売れ行きの良いソーセージやベーコンばかりが種類豊富に並んでおり、そこには暗黒メガコーポのイメージキャラクターがデザインされた袋も並んですらいた。地道なイメージ戦略だ。

「卵なら……」

コトブキは次に卵を探したが、やはり見つからない。映画では確か、冷蔵コーナーで売られていたのだが……

「どういうことでしょう……?」

コトブキは腕を組み、冷蔵庫の前で立ち止まる。その背中に主婦から剣呑な視線を向けられ、彼女は慌てて通路脇に避難し、メモを見返した。店内はまるで未開のジャングルであり、コトブキは財宝を探すトレジャーハンターであった。ロクに地図もなく、無事に買い物を終えられるのか。軽い不安を覚えた。その時だった。

「あら、コトブキ=サンじゃない」

「ジュミ=サン?」

「奇遇ねぇ」

若い女性は愛想よく手を振り、コトブキの隣に歩いてくる。ジュミはピザ・タキの同階層に店を構える性的カラオケ店の従業員であり、コトブキが彼女の店の前を自発的に清掃していた時に、声を掛けられて仲良くなったのだ。

「……あのタキ=サンが?」

成り行きを聞き、ジュミは目を丸くした。彼女はピザ・タキの噂を知る。胡乱なハーフガイジンの経営する店であり、店長の接客態度は悪く、ピザもさして美味くない上、薄汚い。その上、なんとかいう野良ニンジャが我が物顔でのさばっており、タキはパシリとして扱き使われている。

しかもその野良ニンジャは素行が極めて悪く、最近ソウカイヤに捕まり、ドゲザして恭順のイレズミを入れさせられたという。情けない話だ。

「こだわり、ねぇ。そういうタイプに見えないけどねぇ。それに結局、作るのは貴女なんでしょ?」

ジュミは頬に手を当て、首を傾げた。コトブキは力説する。

「それは見た目だけかもしれません。昨日ピザ・シェフの映画を見たのですが、彼は食い入るように画面を見つめていました。きっと心の底にはピザへの熱い情熱が……!」

「ファンの女優でも出てたんじゃないの? それでその子が薄着だったから、下着が透けそうだったとか」

ジュミはその光景を想像し、苦笑した。コトブキは食い下がる。

「そう……かもしれません。しかし彼はピザ作りを許可しました。これはやはり情熱が……」

「そうね、そう」

愛想笑いで話を遮ると、ジュミは話題を切り替える。

「それで買い物にねぇ」

「はい。ですが上手く商品を見つけられなくて」

コトブキはシュンとした。

「ジュミ=サンは何を?」

「お買い物よぉ。アタシの家、この近くなの」

「こんなところにですか?」

「意外と便利なのよぉ。お客さんも多いしね」

「仲が良いのですか?」

「いや、良いっていうか、ねぇ……?」

「?」

ジュミは気まずさに目を逸らす。このコトブキという友人は、年齢的にはジュミとさして変わらないし、彼女の業務内容のことも理解している。しかしどこか無垢な少女のような雰囲気があり、故郷の歳の離れた妹を連想させるところがあった。

「そんなことより、それがレシピなの?」

「? ……はい。ですが中々……」

「ここでは何を?」

「サラミと卵を」

「それ、常温の売り場よぉ」

「そうなんですか?」

コトブキは目を丸くした。サラミはドライソーセージであり、水分が少ないゆえに常温での保蔵が利く。ゆえに生肉とは別のコーナーに陳列されているのだ。ごく一般的な知識だと思っていたが、売り場に連れていってやるとコトブキは喜んだ。ジュミは純粋なリアクションに嬉しくなった。

「他も教えたげる。案内するわ」

ジュミに先導され、コトブキは店内を歩き回り、材料を買い揃えた。

「卵……これが卵ですか?」

コトブキは卵黄と卵白、それぞれの粉末パックを不思議そうに見た。

「これが卵よぉ?」

「でも、映画で見たものとは……」

「あー、昔の映画はそういうのあるって言うわねぇ。でも普通はこれと、こっちよぉ?」

ジュミは耐熱シリコン製の成形器具を取って見せた。粉末卵は日持ちして便利だが、目玉焼きや茹で卵など、卵形が重要な料理にはこうした器具を必要とする。

「殻がありません」

「それはオーガニックね。割高よぉ?」

「どのくらいですか?」

「量だけで言うと、3倍は違うわねぇ」

「まあ!」

コトブキは驚いてみせた。磁気嵐が晴れ、キョート共和国経由による二重の関税に悩まされることがなくなった現在、比較的クリーンな海外地域からのオーガニック食糧輸入はホットなビジネスであり、月破砕以前では考えられぬほど安価で……バイオと比べればそれでも高いが……取引されるようになった。

しかし卵は割れやすく、日本人は生卵を食べる習慣を持つため、徹底した衛生管理も必要となる。そのハードルの高さゆえ、依然として貴重な品となっているのだ。

二人はしばし、そうした歓談を交えながら買い物を続けた。ジュミは打算も下心もない会話を楽しみながら、この僥倖の時間をブッダに感謝していた。


◆ ◆ ◆


「遅えぞ」

その日の午後。開口一番にタキは言った。時刻は気づけば夕方となっていた。

「スミマセン、色々あったんです」

コトブキはカウンターにPVC袋を置き、素直に謝った。

「アー、そうかい」

タキは立ち上がり、袋の中を改める。

「他に食えるもん入ってねえのか」

「ダメですよ、つまみ食いは!」

コトブキが叱った。

「これから私、ピザを作りますから。楽しみに待って下さい」

「待つがよ。そもそもオマエ、作り方分かんのか?」

「調べました!」

コトブキは袖をまくり、力こぶを作ってみせた。

「あとは実践するだけです」

「アー、アー。せいぜい頑張りな。俺は……」

アジトに戻る。タキはそう言おうとしたが、口が止まった。何だか胸騒ぎがした。

「……いや、見守っとく。感謝しろよ。俺はプロフェッショナルだからな」


◆ ◆ ◆


小麦粉をふるいに掛け、ダマと呼ばれる塊を取り除く。ダマとは湿気を吸った小麦粉の玉である。これが出来上がりまで残ると、中の小麦粉が水分を吸わず、食感を悪くするのだ。

コトブキはふるった粉に水を半量入れ、こねた。そしてある程度こねると、残りの水を足した。これで均等に水分が行き渡る。

(マジメなこって)

タキは意外にも手際良くやるコトブキを見て思った。レシピ通りのクソ面倒な工程を、彼女は丁寧にこなしていく。タキが手を抜いた工程を。

そう、タキは一度だけ……以前にピザを焼いたことがある。まだメシがオキアミ・バーだった頃だから、昼の夢からそう遠い頃ではあるまい。その日は月に一度、彼ら姉弟がほんの僅かな小銭を渡され、外出が許可される日だった。

タキは上機嫌だった。目標の額が貯まっていたからだ。姉貴分への感謝を伝えるために、美味いものを食わせる。店で食う金はないが、材料を組み合わせてつくれば何とかなる。インターネットがあればレシピは手に入る。彼は大人の目を盗み、ピザのレシピを得た。

不合理だと思う工程を省略しながら、幼いタキはピザ生地をこねた。姉が帰ってきた時、驚く顔を想像しながら。チーズを散らし、サラミの切れ端を載せると、それっぽい形が出来上がった。

「完璧だ……!」

タキはほくそ笑んだ。あとは焼くだけだが、ハッカー・アジトにオーブンなどない。ゆえに彼はフライパンを使った。無論、料理の経験がない彼は、油を敷く必要性など知らなかった。

……焼き上がったピザの生地は、指先の色が移ったかのように黒くなっていた。幼い姉弟はフライ返しで生地をこそぎ取りながら、生焼けのピザを食べた。チーズは固まりが残って臭く、焦げた生地の苦味が全体に行き渡っていた。

「美味しいよ。嬉しい。ありがとう、タキ」

姉貴は笑ってくれた。それが彼には何よりも辛かった。それでもタキはプライドを振り絞り、無知を装って料理の腕を自慢した。夜一人になって、タキは泣いた。


◆ ◆ ◆


「タキ=サン! タキ=サン! 見てください!」

「ンン……」

騒がしい声が彼を起こした。タキは寝ぼけ眼をこする。また眠ってしまっていたようだった。あまりに退屈だったからか。それとも昨日、あの女優のコラージュ画像を夜更けまで探していたからか。オーブンからトマトソースの香ばしい匂いが漂ってくる。嗅ぎなれた匂いに、タキはおそるおそる引き寄せられた。

「とても美味しそうです!」

両手にミトンを嵌め、エプロンを着けたコトブキは、鉄板を前にとびきりの笑顔を見せた。タキはそれを覗き込む。なるほど、多少形はいびつであり、具の位置にもバラツキがあるが美味そうだ。薄っすら焦げ目のついたチーズの下、まだ残る鉄板の熱を受け、トマトソースがぐつぐつと煮えている。

「ン、まあ……中々だな、ウン」

タキはしかめ面で頷いた。

「私、お皿を取ってきますから」

褒められたコトブキは上機嫌に奥へ引っ込んでいく。タキはピザを見下ろした。今の感情がどういうものなのか、彼にはよくわからなかった。入り口が開き、誰かが入ってきた。タキは椅子に座り、そちらを見た。

「……お前かよ」

わざとらしくため息をつく。ニンジャスレイヤーは意に介さずに言った。

「調べ物だ、タキ=サン。……? なんだそれは」

「アア?」

ニンジャスレイヤーの視線は既製品には見えない、風変わりな形のピザに向いていた。タキは鼻を鳴らした。

「見ての通りだろ。ピザだよ、ピザ。お前の大嫌いなピ・ザ! 食うか?」

「……」

「なんてな、お前……」

カタン。ニンジャスレイヤーは椅子を引き、対面に座った。タキがそれを理解するのには時間がかかった。マスラダは言った。

「お前が焼いたのか」

「エ? あ、いや……」

ニンジャスレイヤーがタキを見る。タキはどこか、その視線に妙な居心地の悪さを覚えた。

「その……」

「私が焼きました!」

台所から戻ってきたコトブキが言った。音で来客を察したのか、皿は3枚あった。

「グッド・タイミングですよ。一緒に食べましょう!」

「ハッ! こいつはピザなんて……」

「分かった」

「ハ?」

ニンジャスレイヤーが頷き、タキはフリーズした。コトブキが皿を並べ、ピザカッターをマスラダに渡した。彼は自分の分のピザを切り分けた。タキはその動きを目で追う。湯気の立つ切断面を、とろけたチーズが流れ、覆い隠す。ニンジャスレイヤーはピザを取り、ごく自然な動作で食べた。タキがあんぐりと口を開けた。

(ハ?)

ニンジャスレイヤーは黙々とピザを食べている。無理をしている様子もない。ではなぜ、俺のピザを拒否する?

(いつものメーカーが特別嫌いだとか……そういうことか?)

タキはぼんやりと考察する。ならば別のメーカーなら食うのだろうか。コトブキは味の感想を尋ねた。

「どうですか?」

「見た目はともかく、味はまあまあだ」

マスラダはぶっきらぼうに言うと、二切れ目を自分の皿に取り分けた。コトブキは嬉しそうに微笑むと、口を開けたままのタキに気づき、言った。

「マスラダ=サン! タキ=サンが食べさせて欲しそうです」

「自分で取れ」

マスラダがピザを咀嚼した。

「なッ……!」

タキは立ち上がり、彼を指差して猛烈に糾弾した。

「お前な、そういう態度が、店のピザを食わずにお前……!」

「タキ=サン! 唾が飛んでしまいます」

「うるせえ! コイツには一度しっかり言っとかなきゃなんねえんだ!」

タキは叫んだ。その様子の意味がわからず、コトブキは困惑げにマスラダを見た。マスラダがうるさいタキから目を逸らすと、2人の目線が合った。コトブキは困ったように微笑んだ。マスラダの口元がほんの少し緩んだ。コトブキは笑顔になった。

「ハァーッ、ハァーッ……」

一通り怒鳴り散らしたタキは、もたれかかるように椅子に座った。マスラダは鉄板をテーブル上に戻した。タキが怒鳴っている間、保護していたのだ。コトブキはそこからピザを切り分け、タキの皿に乗せた。

「何だか知りませんが、お疲れ様です」

「アー……」

怒る気力もない。タキは自分の分に手を伸ばした。口元にまで寄せて、彼は一瞬固まる。

(……らしくねえぞ、タキ)

心中で呟き、垂れたチーズを反ったサラミの上に被せ、口に入れる。一口目をゆっくりと咀嚼する。トロトロになったチーズの油っぽさと、適度な塩加減がサラミの肉汁と合わさり、トマトのコクとともに濃厚な旨みをもたらす。ソースにはニンニクの香りがきいていて、それが更なる食欲を掻き立てた。

「ン……」

タキが二口目にかぶりついた。だが些細な違和感を覚えて咀嚼を止めた。それは僅かな焦げの苦味だった。それが呼水となり、嫌な記憶が呼び起こされそうになった。その時、彼の目の前にグラスに注がれたコーラが差し出された。

「はい、タキ=サンの分です」

ピザを飲み込んだタキは、それを受け取り、ゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。舌の上に残った油と苦味が、炭酸の爽快な刺激とともに洗い流された。唇に小さな氷が当たる、その冷たさが心地よかった。

「それで、どうですか?」

「ン、ああ……そうだな」

タキはやかましく口うるさい従業員と、無愛想でわけのわからない疫病神を見て、言った。

「……悪くねえな」

タキは笑った。

【終わり】

それは誇りとなり、乾いた大地に穴を穿ち、泉に創作エネルギーとかが湧く……そんな言い伝えがあります。