配役によるストーリーの変化

先日、『ミッドサマー』、『ヘレディタリー/継承』のアリ・アスター監督がyoutubeにあげた短編映画『the strange thing about the Johnsons』を鑑賞した。それが個人的な創作の参考になったので今日はそれについて書く。

創作の参考になった事、それは基本となる展開はテンプレでも配役によってはストーリーの印象やその後の展開が大幅に変化する事だ。

これがどういう意味なのか、映画のシーンを引用して説明する。

まず『the strange thing about the Johnsons』のあらすじを大まかに説明すると息子に性的虐待をされる父親とその行為がもたらす悲劇を描いた作品である。

近親相姦や同性愛、性的虐待を描いた作品はそこまで珍しくないが、この作品はこの時点で配役が他の作品とは異なっている。性的虐待は親から子へ行われるのが一般的だが加害者の配役が息子で被害者の配役が父親だし、近親相姦という点で見れば通常は異性間だが配役はどちらも同性だ。同性愛の視点では配役の関係性は家族である。

このように『性的虐待の物語』『同性愛の物語』『近親相姦の物語』でも配役次第ではおぞましさや不気味さなどの印象がより大きなものになるのだ。

更に劇中では、息子が何をしているのか知ってしまった母親と息子が言い争う場面があるのだがその様子はどこか意中の相手を巡って争い合う恋敵同士にも見える。

しかし『意中の相手を巡って争い合う』という展開でも配役が家族、しかも父親を巡って母親と息子が争い合うという場面は狂気、もしくは地獄絵図としか思えないだろう。

ストーリーにはいくつかテンプレートがあるが、その配役を誰にするかで作品の印象やジャンルなどを大幅に変える事ができる。

つまりテンプレートをいじらなくても配役によって差別化は可能なのだ。

作品作りに行き詰った時に展開をどうするか今まで悩んでいたが、配役をどうするかという選択肢をこの作品を鑑賞する事で得られた。

新たな知見を与えてくれたアリ・アスター監督への敬意としてURLを貼っておく。

余談だが、この作品といい『ヘレディタリー/継承』といいアリ・アスター監督は家族という概念に何を思っているのだろうか。



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