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お洒落を装って家系ラーメンを食らう

どれだけ身なりを整えても、格好を装っても、拭いきれない塊があって、身なりを整えれば整えるほど、格好を装えば装うほど、醜い塊が沸々と湧き起こり、小さな斑点ほどの塊も全身へ転移し、やがてはその卑しい雰囲気といおうか、穢らわしい空気感といえばよいか、そんなものを纏ってしまう。他の人からすれば何ひとつ分からず、気配すらなく、だからこそ余計に自分の内面では膨れ上がり、手に追えないばかりか直視すらできず、ただ呆然と、そして愕然と、気分が底をつくのを待つのみ。

久しぶりに服に興味を持った。雑誌まで買った。カッコいいなと思ったし、それらを着ている未来の自分に高揚した。好きな服を着たい、着たい服を着たい。そう思ったし、今でも思っている。だから今日は、新宿での予定をささっと済ませ、下北沢に行きたい帽子屋もあることだし、小田急に飛び乗った。駅に到着し、うんうん、下北だね、なんてことを思い、個性的な格好をした人も、随分と服が好きなんだろうなという人も、自分も今日はいつになくお洒落をしていらっしゃることだからと言い聞かせ、対等に下北沢と渡り合えると思っていた。まずは、本屋へと向かった。それがいけなかった。よく読む雑誌を手にとり、眺め、戻し、ふと目についたのはMacBookを広げて足を組み、自分には理解できないものを打ち込んでいらっしゃる"いかにも"な男性。負けた。そう思った。すぐに移動した。だが、立て続けに自分の目に飛び込んできたのは、ビジネス書や自己啓発本。打ちひしがれた。どうやら自分は、見たくないものを見てしまった。なりたくない気分になってしまった。痛いところを突かれて、これまでは痛いと言わずに我慢をしていたけれど、今日ばかりはやられてしまった。見たくはない一面を、露わにしたくはない本心を、気づきたくはない感情を、無視できなかった。

装って東京をふらふらしていると、無性にラーメンが食べたくなる。そんな格好をした日には、小洒落たバーなんかが似合うのだろうと想像する、もしくはレコードのかかった喫茶店。しかし、そのような日に限って、どれもが自分には刺さらず、無性に味の濃いラーメンが食べたくなる。思い切り麺をすすりたくなる。お気に入りの服を着れば着るほど、なおさら。これが自分なのだと思う。だってほら、下北沢に着いたはいいものの、本屋と帽子屋に行ったきりで、今は路地裏でこの文章を書いている。たいして面白くもない。ただの自己満足で、少しの悪びれが含まれている。恥ずかしいだけで、書かなくていいことが沢山ある。蚊には刺されるし、通行人の邪魔にもなっている。こういった矛盾というか、理想と現実の落差というか、いきなり足場を外されたようで、全てがどうでもよくなってきた。

自分はどちら側に行きたいのだろう。「どちら側」の詳細は割愛する。言ったって、惨めなだけ。どちらにも属せない自分だから、こうして、こんな格好で、味の濃いラーメンを欲しているのだろう。そういえば、上は黒のエアリズム、下は七分丈のステテコ、足元はサンダル。これで山手線に乗り新宿へと向かった時は楽だったな。人にどう見られているかとか、自分がどうしたいかとか、全然なかった。自分らしい時間だったような気がする。

考える前に書かないとダメだ。今までの文章は全て考えてから書いた。悪びれもしたし、着飾ったような、本心ではあるけれども本心ではないような。つまりは、腹落ちのしない文章たち。だから自分は、いつまでたっても同じことの繰り返しで、書くことで考えているような、書くことと考える時間がイコールになっていて、こんな文章しか書けないから寂しくなる。自分の能力の乏しさに、至らなさに、悲しくなる。だから、書こうと思う。もう自分はこのままだから、どうせ自分はこのまま進んでいくのだろうから、だって自分はこのままなのだから。このスタンスで、何かをするならばこうして、何かをしたいと思うのならばこうして、書くしかない。

たまたま立ち寄った本屋で泣きそうになった。世田谷のB&Bで、なんの思い入れもない本を見つけては泣きそうになった。どうやっていけばいいのか分からなかった。東京の、いわゆる街というところに繰り出し、負けないように過ごしてきたつもりだ。けれども、カフェでMacBookを開いた男性を見かけ、あぁはなれないと悟った。悲しくなった。心もとなくなった。自分のか細さとか弱さが、身に染みた。ビジネス書に自己啓発本。嫌いになったのはいつからだろう。自分が働きだして、仕事に追われるのが嫌で、意地でもプライベートを充実させたくて、仕事で生きるなんてまっぴらごめんで、菅田将暉の「人生の賞賛」にはなりたくなくて、ずっとずっと自分は有村架純でいたいような気もして、でもなんだか、自分の無能さ、あした仕事がなくなってしまったらどうやって生きていけばいいのか、東京ですれ違う男性は、みんな自分より、語弊もあるが、「男性としての品格」が、段違いに高いように感じて、引け目を感じる。どうやって生きていこう、でも今からじゃ遅いよな、自分なんて、卑屈めく。東京にいる男性の「男性としての品格」が、だから自分はどれだけ着飾ったところで、お洒落をしたところで、無価値で、剥ぎ取られてしまえば無でしかなく、もはや「無」があることすらも危うく、もしくは、在るには在るけれども、これといった取り柄もなく見向きもされない「男性」として、しかしながら最後の、「男性」、という肩書きが残ることに対して、嫌気を覚える。辛くなる。ため息をついて、考えることはもうやめようと思いながらも、後ろめたさが渦巻き、心が躍らない。

欲しい服がある。欲しい服がありすぎる。キリがない。沼である。買うより先に、金が底をつく。そんな思いを抱えて入った世田谷のB&Bは、自分の身を全て投げ込んでもいいと思える場所だった。欲しい本がある。欲しい本がありすぎる。キリがない。沼である。でもその沼が、心地よいものであることを知っている。次々と本を手にとり、読み、食い入り、戻し、また次の本を手にとる。基準は分からない。エッセイについて、書くことについて、アートについて、暮らしについて、食について、色について、出版社について、震災について、東北について、怪談について、様々と手にとり、戻し、欲しい本がありすぎると思った。欲しい本が、ありすぎる。どうしたらいい。そうして最後、ふと、本当にふと、目に留まった著者の名前が、あ、もしかしてこの人かも、と、期待と共に手にとり、ページをめくり、やっぱり、と、一致した。泣きそうになった。すぐさまB&Bを抜け出し、書いている。訳がわからない。意味がわからない。自分でも確かな確証があるわけではない。それでも、心が少しホッとする出来事で、自分は自分の好きなことを少しばかり嗜みながら、生きていいんだよ、と、なんだか自分で自分を許してあげられたような気がした。

以下、追記。というか、まとめ。

今日は特別に嫌なことがあったわけでもないのに、ただただ自意識の中に吸い込まれていって、動けなくなるような感じで、東京の街に繰り出したはいいものの、どうでもよくなって、お店には数件しか行かず、結局いまの時間まで何も食べてないし、下北沢の路地裏に座ってnoteを書き、たいして面白くもないなと下書きに押し込み、ずっとずっと自己嫌悪。そして、たまたま彷徨い込んだ世田谷のB&Bで、色んな本との不思議な出会い方をして、何千冊もある中から手にした本が、「ウソだろ…」ってくらいに繋がっていて、ただただ驚いて、驚きが感嘆に変わり、泣きそうになって、さっきまでのか細くか弱い自分の惨状を、全てを投げ出してしまってもいいと思えるような本たちに出会えた気がして。例えばそれは、メディアテークでのトークセッションで、自分のお目当ての人とセッションしていたどこかの大学の教授の本。なんで手にとった。それは例えば、自分がずっと前から行きたいと懇願している盛岡の本屋さんの店主の本。なんで手にとった。こんなにたくさんの本があるのに、なんで手にとった。ぜんぜん意識などしていないのに。無意識の中にある意識的なもの、みたいな感じか。分からない。ただの偶然。それを運命であると思い込み、本屋で泣きそうになり、すぐさま抜け出して、またもや路地裏で、体育座りをしながら書いている。はぁ。

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