寂しげな夜に

どうしてこんなにも寂しくなってしまったのだろう。夏の夜の姿が、もっとも寂しい。寂しさの正体はどこにある。誰が、何が、悪いのか。寂しさの根源を、断ち切りたい。

子供の頃から時が経てば経つほど、もうあの頃には戻れないと知り、戻りたいと望んだとて戻れるわけもなく、行き場を失った願望が闇へと葬り去られる。かろうじて生き残った少しの願望が、まるで癌のように、ひとつ、またひとつと転移し、やがて身体中が寂しさに征服されてしまう。寂しさには勝てやしない。負けるしかない。僕は、負け続けることしかできない。負け続けることに、耐え続けなければならない。

だが今は、子供の頃に戻りたいとは思わない。子供の頃と同じような遊びをしたとて、今の自分は満たされない。子供の世界には、ツイッターも、インスタもない。ましてや文章を書くという行為も、ひとつもない。あるのは、ただ息を切らして走り、太陽を追いかけ、汗まみれになって遊び、死んだように眠る。そんなことをしても、今の自分は満たされない。暑い日にはエアコンの効いた部屋でゴロゴロするがよく、30分おきに各種SNSの確認、通知のこないスマホを放り投げてはまた拾うの繰り返し。ごくごくたまに、自分の思ったことや感じたことをつらつら書き留める。今の自分は、これが性に合う。では、寂しさの正体とは。それは結局、歳を重ねるにつれ、大人になるにつれ、一日一日と人生が更新されていくにつれ、失った数多くのものたちを懐かしむ行為こそが、僕をこんな気持ちにさせてしまうのだ。

思い出された記憶の裏には、思い出されなかった記憶があり、いいや、それは記憶にも残らない過去の出来事という冷淡な言い方でしか表すことができない。だからこそ、思い出されなかった過去の出来事こそが、当時のままの温度で、情景で、鮮明さで、自分の中に在り続ける記憶なのだろう。気に入った曲は、何度も何度も繰り返さない。ここぞ、という時にのみ、聴く。その曲に内在された記憶は、そう簡単には、日常的には、思い出したくはない。出来るだけ当時のままで、当時の鮮やかさで、愛する記憶を保ちたい。それでも何かを思い出すたびに、若干の上書きがあり、偏りがあり、記憶は変化する。思い出されなかった過去の出来事だけが、当時のまま。何かを思い出すたび、僕らは、何かを失っている気がしてならない。

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