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書くこと、世界とのダイアローグ

クレバス2020が千秋楽を迎えてから、気づけばもう3週間。
稽古、本番中も思いましたが、時が過ぎるのは本当にあっという間だなあ…と、驚いています。

まだまだ制作関連の仕事は続いているのですが、なかなか切り替えがスパッといかない自分も、ようやくふわふわしたところから地に足が落ち着いてきた感じがあるので、あらためて公演の振り返りなどをようやく書き始めました。

思い返して、次に生かしたい反省点や至らなかった点も勿論あるのですが、それと同じくらい、よい時間と環境のなかで今の自分の出来る力を尽くせたという充足感と、他人との相互作用によって自分の想像の枠を超えるものが生まれる瞬間にたくさん立ち会えたという喜びがあります。

創作の場は1人でつくるものではなく、そこに集う人々全員で、作品の前に作品作りの環境や空気をつくっていくものですが、今回ご一緒したスタッフキャストの皆様、よい作品はもちろん、よい場をつくるということに協力してくれる方ばかりで、それは演出家の稲葉さんの方針や導きもさることながら、集まった人達の「人としての良さ」におうところが、とても大きかったと思います。
その良さに、主宰として大いに助けられましたし、そうした場で自分の脚本が舞台として立ち上がっていく過程を観ることができたのは、作家としてとても幸福なことでした。

そして今回の公演では、素敵な人達の「良さ」だけでなく、「違い」と出会えたことも、私にとってはとても大事なことでした。

例えば、私はプロットを書かないタイプの作家でわりとパッションやドライヴ感で色々やりがちなせいか、よほど前後が破綻したりしてなければ、脚本を書く時に理が通っているかどうかを意識したことがあまりありません。
ですが演出の稲葉賀恵さんは今回の現場で、脚本の言葉に、ものすごく丁寧に「理(ことわり)」を通そうと考えていました。

「なぜ、このキャラクターはこのタイミングでこの話題をだすのか」
「このモノローグはどんな理由で誰にむけて語られているのか」
「この会話が続く背景には、台詞には書かれていないがこんなテキストがあるのではないか」
「このキャラクターはいくつくらいでどんな仕事をしていてどんな人ならこの言葉が出てくるか」

自分でいうのもなんですが、50作もの短編と、それと関りをもっているようなもっていないような感じで話が進行していくパートとが無秩序に連なっているような「クレバス2020」の戯曲を、見せ方を考えるとか感性のあう部分を探すとかではなく、正面から「理(ことわり)」をもって読み通そうという方針にまず驚かされましたし、勇敢だなあと思いました。

そして実際に稲葉さんは、はるか昔バラまかれたようにしか見えない夜空の星をつなげて星座をつくった人のように、小さなビーズに丁寧に針を通す様に、クレバス2020を一つの大きな作品にする「理(ことわり)」を通してくれたと思います。
作者の私ですら気がつかなかった、「この場面にそういう動機のつけ方、通し方があるのか」という気づきが稽古場でたくさんあって、とてもエキサイティングでした。

他にも印象的だったのは、稲葉さんと私の、モノローグ(独白)とダイアローグ(会話)の捉え方の違いについてです。
クレバス2020は、もともと一人芝居を想定して書かれた50の短編が元なので、めちゃくちゃモノローグが多いのですが、稲葉さんは言葉というものを人と人とが交流、コミュニケーションをするためのもので、発せられる言葉にはまず他者がいると考えていて、私は言葉というものを、空中へ投げっぱなすこともまあまああるものだ、という風に考えていました。
実際、私はいまだに独り言が多く、あてもない手紙をボトルにいれて海に流すみたいに、1人で言葉を誰にともなく投げるみたいなことが苦にならないし、あまり疑問に思ったこともありません。
もしかしたら自分がASDという特性をもっているからかもしれませんが、他者のいない言葉、というものは、私にとっては自然で自明のものでしたが、演出の稲葉さんにとってはそうではなく。
その、戯曲に書かれた言葉という、最初のものへの捉え方の違いは、お互いにすごく新鮮でした。
また、今回のキャストはオーディションで集まってくれた方が多かったのですが、出身や主戦場がかなりバラエティーに富んでいて、私達劇作家女子会。も初めましての方が多く、お互いの「違い」から知りあっていったような気がします。

私は昔から発話が苦手で、特に若いころは今よりずっと話すことがうまくいかず、その頃の私の日常にはモノローグばかりでしたので、未だに「言葉を交わす」ということに強いコンプレックスがあります。

そんな私も年を重ねることで最低限の人との話し方を習得していき、特に脚本を書き演劇に関わりだしてから、人生にダイアローグが増えましたが、やっぱり上手ではないという引け目がいまだにありますし、今回も初回稽古での自己紹介で、事前に文章を書いて練習したにも関わらずうまく喋れなくて稽古の後に落ち込んだりもしていました。

そんな、モノローグへの親和性が高く、ダイアローグについては苦手意識やコンプレックスが強くて「違い」ということについても恐れを抱きがちな自分なのですが、今回の現場を経て、その苦手意識や恐れを、今までよりも少しだけ手放すことが出来た気がします。

「違い」は時に人間同士の間で不和の種にもなってしまうものですが、今回の現場では、作家と演出家、キャスト達の色んな「違い」がありながら、その「違い」を平らに均したり強いほうにあわせたりすることなく、違ったままで共同していくという作り方ができたのではないか。そうしてクリエイトしていったことが、コロナ禍を生きる人々それぞれの生活を書いたクレバス2020という劇世界やその創作過程を豊かに広くし、枠を大きく広げていく力になったのではないか。そう思えたからです。

それに、クレバス2020の公演を経て、脚本を、文章を、何かを書くことこそが、私にとっては世界や他者との会話、ダイアローグなのかもしれない。
自分の人生モノローグばかりと思っていたけれど、自分で思うよりも言葉やいろいろなものを、私は私以外のものと交わせているのかもしれない。

そんな風に思えたことも、私にとっては大きなギフトでした。

すでにクレバス2020のスタッフキャストの皆は、それぞれ新しい現場に、演劇に、あるいは生活を歩んでいます。
私も、感謝しつつまた次の日々や脚本や舞台へ、自分なりに歩みをすすめていきたいと思います。
自分はまだまだ書くことを続けると思うし、続けたいとも思っているので、世界との、他者とのダイアローグを続けていきます。

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