なんと私の住所を大公開!

うそ。

えっとねー、なんか話したかったんだよね、それで聞いてほしくて、嘘ついちゃった。

えっとね、なんだっけなー、あ、あれだ

嫌いな言葉を自分と同じように嫌う人を見ると、心開きそうにならない?そうっしょ、分かるっしょ。

でも私は知ってる。そういうとこから、足元掬われるんだぞって。だから気を抜いちゃいけない、その人の嫌なところを探さないと。

でも嫌なところも許しちゃいそうになるんだよねー。言葉って魔法だね、闇の。言葉以上に人を見れるようになれればなー、言葉を信用しすぎているきらいが私にはあります。それはつまり論理ってこと。論理に身を捧げちゃってるってこと。もっと言えば、論理的なことが真実と思っちゃってること。もし論理と実感が喧嘩する時に、論理を味方しちゃうってこと。分かる?

ごめんね、喋りすぎだよね。だけど、そこが我の持ち味でもある。そう言ってた、おばあちゃんが。ん?おじいちゃんだったかな、まあ、どっちでもいいか。老人!身内の老人はそう語りき。

私は人に利用されることを極端に嫌っているので、相手が共感を求めるような発言をしたら、否定します。いやねー、これはほとんど義務なんだよ。私だって気まずいよ。でも、こればっかりは仕方ない。なんなら、社会の安定に資する部分もあると思ってるし。やばいのは分かってるけど。いつだって昨日より優しくなりたいよ。

でも逆を考えたいんだよね。私に利用されることを理解しながらも、私に共感する人をね。その人がそれで癒されることと、それがむしろ足枷になってしまうことを理解して、その上で共感することを選択した場合は、やっぱり愛おしいから、そんなのに、私は弱いよね。

まあ、つまるところ、私が弱いって話で

あ、そうそう、それで私は青椒肉絲と米二合を腹に詰めて戦ってる。一気に食べたら、苦悩群雄割拠の時代が終わり、単一の苦痛がやってくる。それが私を慰める。そして、時間が経つのを待つ。

太ももを強く叩いたりもする。

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