応用行動分析の好きなところ
「罪を憎んで人を憎まず」ということばがありますよね。
やっちゃったことは、悪い。
でも、あなたが悪いわけじゃない。
したことが悪いだけで、あなた自身がダメな人間じゃないんだよ。
子育てにおいても、そんなふうに言ってもらえたら、子どもは嬉しいし、安心できると思うんですけど、
実際には、やっちゃったことは、大抵、その子の性格に起因することだと思われて責められます。
たとえば、忘れ物が多ければ「だらしない性格だから」。
テストの点が悪ければ「頭が悪いから」もしくは「努力をしないから」。
兄弟喧嘩をすれば、「お兄ちゃんが意地悪だから」もしくは「弟がお兄ちゃんの邪魔ばっかりするから」。
そして、だらしなさや、努力の足りなさ、意地悪さ、などといった、マイナスに見える性格的要素をあげつらい、叱られ
「しっかりしなさいよ」
とアドバイスにもならないことを言われて説教が終わるわけです。
これって意味ある??
だらしないと指摘されれば「はっ、いかんいかん!」と、だらしなさは消えるもんかしら?
「努力が足りない」と叱られて、自発的努力が生まれるものかしら?
それより何より、「だらしない性格」「努力できない人間性」「意地悪な性格」と決めつけられる気持ちって、どんなんだろう?
ついつい言っちゃうこれらのセリフ、明らかに人格否定だと思いませんか?
わたしはこれらの、安直な「犯人探し」というのが嫌いです。
「だらしない」というレッテルを貼る。
「努力できない」というレッテルを貼る。
「意地悪」というレッテルを貼る。
これら全て、「性格」という外からは見えない個人の内面に、
悪いことやできないことの犯人探しをする行為です。
つまり、人を憎んで、罪はほったらかし。
犯人見つけた!こいつが悪い!でおしまい。
だから、罪について学ぶことができず、ますます繰り返すわけですね。
便宜上、「罪」と書きましたが、行為自体には、別に罪もへったくれもありません。
その結果が、好ましくなければ「罪」と言われるだけです。
行為の結果で、判断されているわけです。
忘れ物が多くても、それを責める人がいなければ、別に罪ではない。
テストの点数なんていう、切り取られた尺度でしかこどもを見ないのび太のママみたいな親がいなければ、たとえ0点でも、それは別に罪ではない。
罪をつくっているのは、周りの価値判断だとも言えます。
だとしたらそんな相対的なものに振り回されるより、もっと大事なところに目を向けたいなと思うんです。
忘れ物をすることが悪いと叱るのではなく、
事前準備をする習慣を身につけてあげられていない状態なんだな、と理解する。
テストの点数が悪いと叱るのではなく、
学習しようという意欲や習慣を身につけてあげられていない状態なんだな、と理解する。
全て、性格が問題なのではなく、行動が習慣化できていないところが問題なんだな、と考える。
行動のみに着目するのです。
応用行動分析は、行動だけを取り上げ、好ましい行動を増やすにはどうしたら良いか、好ましくない行動を減らすにはどうしたらいいか、を考える学問です。
「罪を憎んで人を憎まず」は、理想だけれど、そんなに簡単に気持ちが切り替えられないわよね、
と思う大人たちに「子どもの気持ちを考えられない、ひどい大人」というレッテルを貼るのではなく、
「罪を憎んで人を憎まないためにはどうしたらいいのか」という考え方と行動がインストールされてない状態なんだな、と理解するわけです。
ね。
あなたも悪くない。子どもも悪くない。
応用行動分析って、素敵な考え方じゃない?
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。 サポートは、お年玉みたいなものだと思ってますので、甘やかさず、年一くらいにしておいてください。精進します。