「私は母から逃げたかった~野口英世異聞~」

※この投稿は、天狼院書店が主催するライターズ倶楽部での課題投稿において、ボツになったものを掲載してみる試みです。課題は毎週5000文字以内で、与えられたテーマに沿って書いて提出し、面白ければ天狼院書店のWEB天狼院に掲載され、面白くなければボツになります。このときのテーマは「もっと遠くへ」でした。

※このお話はフィクションです。

数日前から眩暈と軽い頭痛を感じていた。
気のせいだと思いたいが、悪い予感はあたる。
悪寒があり発熱を確認すると、そのまま熱は急激に上昇した。
鏡の中の自分の顔は、目が充血して皮膚が黄色い。
ついに黄熱病に罹患した。
これまで見てきた例からすると、黄疸まで出ているくらいだからかなり重症だろう。
私はもう助からないと思う。
黄熱病を引き起こす病原菌を見つけることができないまま、私は人生を終えようとしている。

私の名は野口英世。
51歳。
細菌学の分野では、一時は世界の野口と呼ばれノーベル賞の候補にもなった。
これからも研究を続けられると思っていたのだが、案外早い最期を迎えることになったようだ。
日本から出てアメリカにわたり、黄熱病撲滅のためエクアドル、ペルーそして英領ゴースト・コースト(現在のガーナ共和国)へ。
こんなに遠くまでやってきてしまったのは、本当のところ研究に対する情熱のためなどではなかった。
逃げたかったのだ。
何から?
私を愛する母から。
できるだけ遠くへ。
母の手の届かないところへ。

私はこの話をこれまで誰かに話したことはない。
けれど、誰かに打ち明けたいとずっと思っていた。
君は口が堅いだろうか?
私の話を、心のうちにひっそりと留め置いてくれるだろうか?
そうか。
安心した。
では、これから語る話はどうか君だけの胸に納めておいてほしい。
逃げ続けてこんな遠くまで来てしまった私の話を。

君も知っての通り、私の左手はほとんど動かない。
軽く開いたり握ったりはできるようになったが、何かの作業の役には立たない。
私には全く記憶がないのだが、1歳半で囲炉裏に落ちて手に大やけどを負ったのだ。
その場に私がいればよかったのに、と思う。
適切な処置ができたはずだ。
だが、無学な私の母は、重度のやけどを負い泣き叫ぶ私にどう手当てすればよいのかもよくわからず、また、医者に見せる金もなく、結果私の手は握ったままこぶのような形に皮膚が癒着し、そのまま成長することになった。
見てくれたまえ。
私の左手は右手よりずいぶん小さいだろう?
人の体は、使わないところは退化していくのだと教わったが、自分の手でそれを見せられると生物の不思議に驚嘆せざるを得ない。
握ったまま、ずっと動かせなかったのだから、当たり前のことなのだがね。

君は私をかわいそうだと思うかね?
思わない? そうか。
努力で名声を得た今となっては、私をかわいそうだと思う者はもういないのかもしれないな。
左手がよく動かないくらい、どちらかというと箔がつくくらいのものだ。
「手に障害を負って、あんなに苦労をしながら今の地位を築いた」とね。
人は美談が好きな生き物だから。

なあ君。
私には幼いころから呪いがかけられていたのだよ。
物心ついたころには、周りは私のこの手をかわいそうな不幸の象徴として扱っていた。
私にとっては、気づいたらもうこういう手を持っていたのだから、不幸でも何でもなく「そういうもの」でしかなかったのだがね。

けれど、周りからの刷り込みというのは恐ろしいもので、毎日「かわいそうに。お前は学問で身を立てるのだよ」と左手をなでさする母や「てんぼう、てんぼう」とからかう同級の子らの声を聴くうち、私はまんまと呪いにはまってしまったのだ。
「自分は左手が使えないかわいそうな子。将来食べていけない子。勉強するしか道が残されていない子」とね。
小学校に通う頃にはすっかり、洗脳されてしまっていたよ。

だから、最初は一生懸命学ぶ気でいたさ。
けれど、幼い子どもが周り中から、やれ貧乏人だのてんぼうだのといじめられ排斥されて、勉強に集中できると思うかい?
私は無理だと思う。
というより、溺愛され甘やかされた私には無理だった。
母は私にやけどを負わせたという罪悪感から、兄弟の誰よりも私をひいきした。
誰よりも愛情を注いでくれたと思う。
それは本当のことだ。
母は私に勉強させる金を工面するために、それこそ朝から晩まで働いていた。

君は歩荷(ぼっか)という仕事を知っているかい?
馬や牛に頼らず荷物を背負い運ぶ人のことを歩荷と呼ぶのだが、私の育った会津は冬の積雪が相当なものでね。
冬の歩荷は男でも嫌がる仕事なんだよ。
それを母は、仕事があれば請け負うんだ。
村の庄屋さんの荷物なんかをね、何十キロも担いで雪の中を何時間も歩いて町を往復するのさ。
良い稼ぎになったらしいが、寒いわ重いわ、つらくてさんざんな仕事だったと思う。
全ては私のためだ。
私はそれを知っているからね、どれだけ学校に行きたくなくても、母に「行きたくない」とは言えなかった。
しかも、理由が「やけどした左手のせいでいじめられるから」だ。
言えば母はまた自分を責めるだろう。
なので、こっそりサボっていたのだが、ある日、母に見つかってしまったんだよ。

とっさに「叱られる!」と思った。
「私がどんな思いで働いてると思ってるんだ!?」と母が激怒すると思ったんだよ。
私としては、それを期待していたところもある。
怒ってくれたら、こっちだって反発しやすいじゃないか。
「こんな手で生きていたくなんかない! 普通になりたい!」
と気持ちを吐き出すことだってできただろう。
ケンカをし、母が私を見限って勉強させるために働くのをやめてくれたら、罪悪感を持たずに堂々と学校をさぼることだってできる。
ところが、母はどうしたと思う?
「お前が学校でいじめられているのは知っている。こんな手にしてしまってすまない。本当に申し訳ない。だが、ここで勉強をあきらめては、お前が生きてゆくすべがない。どうか、こらえて勉強に精を出してはくれないか」と、私を抱きしめて泣くのだよ。

もう、これには本当に参ってしまった。
私にはぐれることも心の内をぶつけることも許されないのか、と絶望したよ。
母は、あれから私が勉強に集中するようになったと思っていたようだが、それはちがう。
私はただ、絶望したんだ。
逃げようのない母の期待にね。
絶望の淵で死ぬこともできず、ほかにやれることもないから勉強していただけなんだ。

今となっては、学問で身を立てるという選択は悪くなかったと思っている。
会津の片田舎で百姓しながら終える人生を想像しようとしても、できないしね。
その点では、母の考えは正しかった。
時代も味方していたと思う。
建前上は江戸時代の士農工商のような身分や差別はなかったからね。
西洋の学問を学んで追い付け追い越せという風が日本中に吹きわたっていて、頭脳の明晰さ一本でのし上がっていくことができた。
しがない貧乏百姓の倅でも努力すればするだけ報われることもあった。
日本が立身出世が可能な国になっていたのは私にとって追い風だった。

そうそう。
私は、小学校のころには先生の代わりに級友に勉強を教える生長という役にもついていたのだよ。
母が喜んで生長にふさわしい見栄えの良い服をあつらえなくてはと、無理して洋服をこしらえてくれたりもした。
私の父はアル中で、あればあるだけ呑んでしまい、相変わらず家には金なんてなかったのに、どこでどう工面したのか、一張羅を仕立ててもらったよ。
継ぎのあたった着物より暖かくてうれしかったが、それでも違和感はあった。
なんというのか、私の人生なのに母の美談の一部にされているような心持がしたのだ。

ただ、その頃にはもう私は仮面をかぶることを覚えていたのでそれを表に出したりはしなかった。
これ以上母に泣かれるのは、ねっとりとまとわりつかれるようで嫌だったのだ。
全ては私の問題なのに、母が私以上に未来を案じたり、泣いたりするのを見るのが、本当に耐えられなかった。
これは私の人生ではないのか? なぜ、そんなに私を搦めとろうとするのか? と不快でしかなかった。
だから、まじめに学問に邁進する良い生徒を演じていただけだったのだ。

高等小学校に上がった時、私はハンデでしかなかった左手を自分の株を上げることに利用してやろうと思いついた。
つづり方の時間に、「この手でつらい思いをたくさんしてきた。だが母の気持ちを思うと負けずに頑張ろうと思う」という内容の作文を書いたのだ。
驚いたことに、この作文が先生と級友の心を動かし「野口くんの手を治してあげよう」とカンパ募集が始まり瞬く間に手術代が集まってしまった。
おかげで私のくっついていた五本の指は、ようやく別々の指として開くことができるようになったというわけだ。
だが、君も知っての通りずっと使っていなかったものだから、どんなに練習しようとも器用に動くようにはならなかったがね。

手術の成功で私は、さらに良いことを思いついた。
これがうまくいけば、母から離れられると思った。
遠くへ一人で行けると思った。
なんだと思う?
「手が治ったことに感動した私が、医者を志すというのは自然な流れじゃないか」と考えたのだ。
矛盾のない話だろう?
これなら、母の「学問で身を立てよ」という教えにも背かないし、医学を学ぶためには必然的に家を出てどこかの学校や病院で修行を積まなくてはならない。
仮面をかぶったまま、うまく母のもとから逃げられる非常に素晴らしいアイデアだと思った。
幸いなことに、手の手術を引き受けてくれた会陽医院の渡部鼎(かなえ)先生が高等小学校を出た私を住み込みで学びながら働けるよう取り計らってくださった。
おかげで私は、特に好きでもない医学という道を選ぶことになったのだけれど、やけどを負わせた罪悪感のあまり、自分の胎内に取り込むように溺愛しようとする母のそばにいることはこれ以上耐えられなかったのだ。

会陽医院では、四年間住み込みで学ばせてもらった。
だが、町の開業医として食べていくにはどうしてもこの動かない左手がハンデになる。
何よりこの手を患者に見られるのは私が嫌だった。
そこで、私は研究者として生きていく方向に舵を切った。
東京に出て、学ぼうと思ったのだ。
ただ、君もわかるだろうが日本の医学の世界は閉鎖的だ。
学閥が幅を利かせていて、私のように医院の書生から独学で医学を学んだ異端児は、研究者としてどこにも所属させてもらえず偉くなる道がない。
だから、苦労して職を得た時は嬉しかったよ。

私はその後、いろいろなご縁を得てロックフェラー研究所の所長サイモン・フレキスナー博士の一等助手としてアメリカで働きだすわけだが、仕事が忙しいことは大きな救いだった。
日本に帰らない言い訳になるからね。
なんだかんだで12年アメリカを出ることなく母のことを考えることもなく過ごすことができていたんだ。

でもそんなある日、母から手紙が届いた。
私は母が文字を書けるとは知らなかった。
生家にいた頃、母が読み書きしているところなど、ついぞ見たことがなかったからね。
代筆かと思ったが、ひらがなとカタカナだけのアンバランスな文字が並ぶその書面を見た時、ああ、これは正真正銘母からのものだと思ったよ。

どんな内容かって?
呪いだよ。
私はもう、アメリカで結婚して新しい生活を始めているというのに、母からは帰ってきてくれ、帰ってきてくれの一点張りだ。
今さら私に会津で何をして暮らせというのだ。
アメリカで裕福に育った妻をあの生家に連れて帰れるわけがないだろう。
私はそう思って、その手紙を無視した。

アメリカまで来たというのに、まだ私は母から逃げられないのかと思った。
もっと遠くへ、もっと母の手の届かないところへ、手紙も届かない地の果てまで逃げなければ、私はあの母を忘れることができないのだろうか、と戦慄した。

母には私に対する愛情があるのは、もちろん知っている。
だが、愛だけではない複雑な感情が母の内を去来していることも、私は知っている。
どれだけ母が必死に稼いでも、すぐに呑んで使ってしまう父。
溺愛される私を見て、心の距離を感じていた姉と弟。
母は確かにけなげによく働く立派な人だった。
しかし家族は誰も、その立派な母の味方ではないのだ。
それを感じとった母が、過剰な期待を私にぶつけてくるのが昔から重かったのだ。

私は、溺愛などほしくなかった。
かわいそうに思ってほしくなんてなかった。
仮面などかぶりたくなかった。
貧しくとも、笑ったり怒ったり気持ちを言い合える本当の家族が欲しかった。
誰とも気持ちを分かち合うことのできない人生なんて寂しいじゃないか。

それができない家庭に育ち、自我を食われそうな恐怖でこんなところまで逃げてきてしまったのが私なのだよ。
どうかね?
私のことを軽蔑しただろうか?

それでも私はその3年後、帰国して母に会っている。
どうしてだと思う?
それは、母の写真を見たからだ。
おせっかいな人がいて、母の写真を撮って送って寄越したのだよ。
私の記憶の中の母は、頑丈で生き生きしていて、いつも他人のために生きていた。
自分の不注意で障害を負った息子に、呑んだくれの夫。
幼いころ両親に捨てられ祖母に育てられた母は、私たち手のかかる家族を捨てることが頭をよぎることだってあったと思う。
なのに、それをしなかった。
逆境の中でこそ輝くような、生命力が漲る人だった。
それがだよ。
写真の中の母は背が曲がり一回り小さくなり、皺だらけの老婆になっていたんだ。
もう、誰の役に立つこともできないようなね。
わかるかい?
私を食らいつくそうとしているかと思われた魔女のような母は、実は普通に年老いて死んでいくただの人間だったんだよ。
私は、そのことに全く気づけなかった。
写真を見るまで、母はいつまでもあの頃の母のままだと思っていたんだ。

私はそのあと早速帰国した。
老い先短い母の残り時間を思ったら、すこしくらい親孝行をしてもいいんじゃないかと、人間らしい感情が湧いてきたんだ。
我ながら不思議だよ。
あれほど嫌だったのに、母がもうじき老いて死ぬだろうと思ったら嫌ではなくなっていたんだ。
もう、母は私に何もできやしない。
強大な魔女がただの老女だと知って、呪いはすっかり解けたと思った。
だから、私は帰国して国中から大歓待を受けながら、各地に母を伴って旅行した。
おいしいものを食べさせ、ふかふかの布団で寝かせ、精一杯優しくした。
母がこれからの生活に困らないように金も置いてきた。
アル中の父は、母から引きはがして北海道の弟に押し付けた。
ずいぶん時間がかかってしまったが、私たちは私の望む親子になれたと思っていた。
だが、私がアメリカに帰るその夜、母はこう言ったのだ。
「いつ、一緒に住めるだろうか?」と。

呪いは解けたはずだし、母に力がないことは知っている。
けれど「嫌だ」と思う気持ちは体に感覚として残っている。
とてもとても、拭い去れるものではなかったのだ。

なぜ母は私の足かせになろうとするのだろう。
学問で身を立てよと言いながら、寂しさから息子を呼び戻そうとする。
ああ、まただ、また母の手が伸びてくる。

だから私は黄熱病の研究を買って出たのだ。
もっともっと遠くへ。
誰も届かない地へ。

私が黄熱病の病原体を探して南米を回っている間に、スペイン風邪にかかって母は死んだ。
あんなに逃げたかった母は、66歳で誰の手も届かないところへと去った。
やっと安心できるかと思ったのに、私はあれ以来ずっと寂しくて仕方ないのだ。

ねえ君。
どうしてだろう?
私はどこで何を間違えたんだろうね?
わからないまま、私は世を去ることになるようだ。
このまま遠い遠い天国に行けたなら、私はそこで母と仲良く暮らせるのだろうか。
ああ。

「どうも私にはわからない」(野口英世最期の言葉)


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