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峠のイメージ
世の中は知らないことだらけだ。
その知らないことを、自分のイメージで「こんな感じかな?」と解釈していることがよくある。
例えば「峠」。
登山が趣味の方にとっては、「峠」なんて、いまさら定義するまでもない言葉なのだろうが、私は正確な意味を知らなかった。
「峠の茶屋」なんていう、のほほんとした言葉から、けっこうのんびりした場所のイメージを持っていたのである。
道の勾配もそんなに急なわけではなく、談笑しながらニコニコ通る人もいる、今の感覚で言うと「子連れでピクニックしながら、お弁当を食べに行くやや小高い丘のようなところ」のような感覚でいたのである。
図にするとこんな感じ。(イメージ比較のために、平野、台地、山地も載せておく)
![](https://assets.st-note.com/img/1647138873416-sDR25smTl9.jpg?width=800)
そして峠。
![](https://assets.st-note.com/img/1647138984359-cw3ijKrXYu.jpg?width=800)
実にのんびりしている。
下の写真は、若狭湾から見える山を撮ったものだが、右の900mを越える山は、私の頭の中では「山」、左の200m程度の山は、私の中では「丘」または「峠」と呼ぶべき地形だと思っていたのである。判断基準は標高だ。
![](https://assets.st-note.com/img/1647139710002-bSbtoLAbcw.jpg?width=800)
ところが実際の峠の定義は、こういうものだった。
山地の尾根の峰と峰との間の低い鞍部(あんぶ)をいい、尾根越えの道路が通じている所を峠という。低い鞍部は古語で「タワ」「タオリ」「タル」「タオ」などとよばれ、トウゲはタムケ(手向)の転化ともいわれるが、むしろ「タワゴエ」や「トウゴエ」が詰まったものと考えられている。英語でパスpassというのは、通過できるpassableことからきており、山稜(さんりょう)の低所に道が通じているものをいう。
(中略)
インド北西部カシミールのカラコルム峠(5574メートル)は世界最高の峠と称され、インドと中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区との連絡路となっている。
(中略)
日本では、南アルプスの赤石山脈中の三伏峠(さんぷくとうげ)(2600メートル)が最高で、古い時代には静岡県の大井川地方と長野県の伊那(いな)盆地との交通路に利用されたが、現在は、塩見岳への登山基地となっている。そのほか飛騨(ひだ)山脈中の針ノ木峠(2541メートル)、関東山地の雁坂(かりさか)峠(2082メートル)などが高く、よく知られている。
[市川正巳]
つまり、峠の定義には標高は全く関係なかったのだ! 5574mあろうが何だろうが、周りから多少なりとも低くなっていて、山向こうに行くための道ができていれば、それは峠なのだった。世界には、富士山より高い峠が存在したのである!
どうしていきなり峠の話などしているのかというと、またしても天狗党なのである。
彼らが通った、岐阜県と福井県の境にある「蠅帽子峠」とは、どんなものだったのだろうかと資料を調べていたのだが、「何といっても峠なんだし、大雪が積もっていたとしても、越えるのに苦労するような高さじゃなかったんだろう」と思いこんでいたのだ。
ところが。
1 蝿帽子峠(福井県大野市・岐阜県根尾村)
福井県の南東方、大野市下秋生と岐阜県根尾村大河原を結んだ越美国境にあった標高約987mの峠です。
国道157号線上にある温見峠の東方約6km付近で、越山(標高1,129m)と屏風山(標高1,354m)の稜線鞍部にありました。
はえぼうし、はいぼうしともいい、這法師、拝星、拝保志とも記しました。
岐阜県側では灰ホウジ、這越とも呼びました。 峠の地図はこちらです。
とんでもない勘違いだった。987mもあったら、立派に山だ。
わたしが住んでいる敦賀からは、四方八方どちらを見ても必ず山が見える。海の方角を向いても、敦賀半島や越前方面の山が目に入り、そのどれもが800~900m級だ。
「なんだ、1000mもない山なんでしょ?たいしたことなくない?」
と思われるかもしれないが、海のすぐそばの海抜ゼロメートルに近い平野部から見ると、いずれもそそり立って見える。敦賀近辺で最も高い「野坂岳」という山でも914mというのだから、天狗党が越えてきた蠅帽子峠のすごさがわかる。
こんなところ、空身で登るのもイヤである。
大砲を分解して背負って登るなんて、とんでもない。しかも、人の背丈ほどの雪が積もっているところをラッセルしながら、である。
幕府のお尋ね者として八方ふさがりだった天狗党としては、ほかにできることもなかったため、京都の一橋慶喜公を頼る以外に道はなかったのだと頭では理解しているが、それだけのためにこの行軍は信じられない。
生きていたら、一番インタビューしてみたい人たちが天狗党の皆さんなのである。
まっ平らな平野が広がる茨城出身の彼らは、私と同じように山とか峠とか言われても「大したことなかろう」と思っていたんじゃないのか、と勝手に想像しているのである。
ああ、日記が読みたい。彼らの苦境をリアルに遺したものに触れてみたい。探し方が下手なせいなのか、国立国会図書館まで行っても見つけられなかったのだ。
どこに行けば、読めるのだろう。ご存じの方、教えてほしい。
**連続投稿43日目**
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