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天狗党ルート逆走①~敦賀から今庄~

以前から「雪が消えたら、揖斐から敦賀までの、天狗党がたどってきた道を逆走してみたい」と思っていた。
資料を読み、写真を眺めているでいるだけでは想像に限界がある。
彼らは、どんなところを歩いて、どんな宿に泊まったのだろう。

全行程は一日では無理だが、敦賀に入る手前の「新保(しんぽ)」「今庄(いまじょう)」くらいなら半日あれば行けるはずだ。GoogleMapによれば、天狗党が最後に越えた難所である「木ノ芽峠」を通って今庄まで、昔の山道を走っても、全行程30キロにも満たない。

先日のうららかな日差しで桜も咲き始めた敦賀である。
そろそろ大丈夫だろうと思って、バイクで行けるところまで行ってみることにした。

GoogleMapより

トンネルなどのショートカットはできるだけ使わないで、昔の峠道が残っているところは極力そこを使うこと。
これが唯一のルールだ。
まずは、敦賀から476号線に乗り、葉原(はばら)を抜けて新保に向かう。

葉原は、天狗党討伐隊の先陣が布陣していたところで、山あいに田んぼが広がるのどかな農村である。山から滲みだしたばかりの川の水はとてもきれいで、夏には蛍が飛ぶ。空が広くて気持ちいい。

葉原

ここから木ノ芽川に沿って、道が徐々に登りになる。川の両岸は、山が迫るギリギリまで田んぼが作られている。田んぼは幅20mに満たないところもある。斜面に沿って段々に整地された、小さな田んぼの脇を道路が走る。

最初の目的地「新保」へは、「葉原」からだと5分もかからない。あっという間に、史跡「武田耕雲斎本陣跡」についた。

新保「武田耕雲斎 本陣跡」

写真でわかるように、新保という集落は山の斜面にへばりつくように広がっている。本陣前の道路もかなりの斜度がある。総戸数50戸もない小さな集落だ。ハマショー風に言うなら「この町のメインストリートわずか数10メートル」だ。

ZENRIN地図より

天狗党がやってきたときには、家ももっと少なかったに違いない。ここに800人を超える人数がどうやって宿泊できたのか。とんでもない超過密雑魚寝状態だったに違いない。
そして、ここは、山あいの小さな小さな寒村である。800人の食料をまかなう地力もなかった。
天狗党の降伏は寒さによる疲弊だけではなく「飢え」にも由来するのだと言われている。

本陣跡には自由に入れるので、庭に入ってみる。

さすがに建物の中までは開放していないようで、雨戸が閉め切られている。本やネットで、正面からの写真ばかり見ていたため、茶室のような狭い建物なのかと思っていたのだが、今回、横から建物を眺めることができた。

実は奥行きが、かなりあった。

加賀藩の使者が最初に新保を訪れた時、耕雲斎は発熱して床に就いていたという話もあり、使者が来た時に、狭い茶室のどこに寝かされていたのかと心配していたのだけれど、ちゃんと別室があったのだな。
家を見て、ようやく納得し、安心した。

本陣の横に立っていた看板の説明文をそのまま載せる。

敦賀市指定文化財「史跡 武田耕雲斎本陣跡」
                   指定年月日昭和34年10月5日
この建物は、当時、問屋を経営していた塚谷家の屋敷の一部である。規模は小さいが書院造で、門・式台・下段の間・上段の間を備え、式台の柱上の三ツ斗の組物などによって、格式の高さをうかがわせている。
元治元年(1864年)12月11日、水戸の武田耕雲斎らの一党800余名が進歩に宿営した際に、耕雲斎が陣を取ったのがこの本陣で、耕雲斎らの降伏に際し、幕府軍の先陣を務めた加賀藩の使者と数度にわたる会談を行ったのもこの書院である。それ以来、新保陣屋とも呼ばれている。

敦賀市設置の看板より

ひとつ心のつっかえが取れたので、気分よく次の目的地、木ノ芽峠に向かうことにした。
ところが、峠に至る道の入り口が見つけられず、本来なら地図の青い道を辿るべきところを、黄色の476号線にのってしまい、トンネルを抜けて山の反対側に出てしまった。

GoogleMapより

しかたがないので「板取」から「今庄365スキー場」を経由して峠に行くことにし、谷底を走る道からスキー場めがけて激坂を登っていった。つづら折りの急カーブをひとつ越えるたびに、徐々に空が明るく広くなっていく。

スキー場につくと、ゲレンデの一部に雪が残っている。
嫌な予感。

ナビに従って、斜度の急な細い山道を登る。ふむふむ、あと7分か。

ところが、ここから20mも行かないうちにすすめなくなった。雪である。誰も使わない道なので、除雪されておらず、膝くらいの深さの雪が残っている。

比較のためにヘルメットをおいてみた。天狗党なら進むのだろうが、私には無理だ。
「木ノ芽峠」は、2022年4月2日現在、雪で通行不能、次回のお楽しみとなった。

気を取り直して、「今庄」へ。
「今庄」は、そばで有名なところで、宿場町の面影がかなり色濃く残っている。山を下って、15分ほどで「今庄」についた。
旧街道沿いに、造り酒屋や旅籠の建物が残っている。

宿場の本陣を探すと、建物はすでになくなっていたが、整地された後に小さなお堂が立っていて、かつての「今庄」の様子について説明書きがあった。

その一節。

今庄は、江戸時代を通じて、宿場として越前でもっとも繁栄したところである。初代藩主結城秀康は、北陸道を整備したが、この時に今庄については、重要な宿駅として計画的に街並みを造らせた。(中略)その街並みは約一キロに及び、家屋が櫛の歯のように立て込んでいた。(中略)天保年間には、戸数が290余り、うち旅籠屋55軒、茶屋15軒、娼屋2軒、縮緬屋2軒、鳥屋15軒などがあった。

さぞにぎわった、立派な宿場町だったのだろう。

雪の峠をいくつも越えて、久しぶりに大きな宿場町「今庄」についた天狗党の面々は、きっと、食事や風呂の世話をしてもらえるものと思っていたに違いない。
ところが、この町では「天狗党が来る」というので、町中総出で逃げてしまっていた。
ほかの町でも、こういうことはままあった。
けれど、女子供は退避させても、男衆は残って世話をしてくれたのが一般的だった。
なのに「今庄」には人っ子一人いないのだ。

疲れた体を引きずって、それでも食料などは残っていたので、自分たちで炊事をし、風呂をたて、酒屋から持ち出したお酒を飲み、天狗党は久しぶりに酔っぱらった。
酔うと、その時の気分が拡大される。
明るい酒ではなかったのだろう。
今庄には、酔っぱらった天狗党の輩が、柱に切りかかってつけたという跡が残っているらしい。

それが見たいな、どこだろう、とバイクを停めて少し歩くと、この看板が出ていた。
早い。すぐに見つかった。

豪雪に負けないよう、たいそう太い立派な梁を使った豪壮なお屋敷だ。
無料で見学できるようになっていて、中にはボランティアの女性が一人座っていらっしゃった。
京藤家の子孫は、みな都会に出てしまい、屋敷の管理もできないので、建物は町に寄付されたのだそうだ。
だから、この家には今、住んでいる人がいないのだが、隅々まで掃除が行き届いて、とてもきれいにされていた。

そして、これが噂の刀の傷跡。
結構ざっくり行っちゃってる。うっぷんを晴らした、というより、柱を切り倒そうとしたようにも見える。

さらに、驚いたのが、こちらの古文書。
すごいですよ、これ。

この古文書の右ページに署名のある『吟味役 永原甚七郎』さんとは、
「天狗党を早く討たんか」
と催促してくる幕府軍に対し、
「腹ペコで疲れ切ってて、降伏しようとしてる人たちに、むやみに戦いを仕掛けるなんて武士の恥」
と言い返し、それだけならず、飢えに苦しむ天狗党に米や酒を差し入れしてくれた、加賀藩の偉い人ではないか!
直筆サイン入り文書が、なぜここに?

ボランティアの女性に訊いてみたが
「さあ。近所の人が最近、持ってきたみたいよ」
としかご存じでなかった。近所の人、なんか、もうちょっとこう。。

たぶん、天狗党のメンバーから聞き取った名前と出身地しか書いてないのだと思うけれど、中を開いて見たかった。

こちらの文書は、もうちょっと愉快そう。
タイトル「水戸浪人止宿大混乱諸事記」。

京藤家の文書ということは、柱に刀の傷がつけられていた話や、浪士が酒風呂を使った話は、ここが出典なのかもしれない。
それにしても、ここの家の人たちはみんな「今庄」から逃げ出して不在だったのに、どうして「大混乱諸事記」が書けたのか。
気になる。
どこに問い合わせたらいいのだろう。
ここからいろいろ調べられそうな気もする。

予想外に凄いものが見られたので、ホクホクしながら帰宅の途についた。
やっぱり、現場に行くというのは、とても意味があることなのだな。
もう少し雪が解けたら、さらに北上してみようと思う。

そのまえに、木ノ芽峠制覇が先ですね。

**連続投稿64日目**

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