生き物を殺す経験について思うこと
虫を殺すことが「かわいそう」と本当に思っているか、といったら、たぶん5割くらいの人が、「かわいそう」と「怖いまたは気持ち悪い」を混同しているんじゃないかと思う。
私は、爬虫類、両生類の生物や昆虫が死ぬことを、かわいそうと思ったことが無い。
小さいころから、モンシロチョウの幼虫とか、カブトムシの幼虫とか、おたまじゃくしとか、ザリガニなど育てていたけれど、名前を付けて飼っていても、死んだときに泣けるほど悲しかったか、というと、全然そんなことなかった。
捕まえる、という遊びの部分が楽しくて、飼育はおまけみたいなものだったから、というのもある。捕まえた瞬間にそれらの生き物に対する関心は、がくっと減少している。捕まえるのは楽しくても、飼うのは楽しくない作業だからだ。
飼育方法が不適切で、私が殺してしまった、と思うときはそれなりに自分を責めて泣いたけれど、死んだオタマジャクシを一匹一匹可哀そうにと思ってはいなかった。自分の失敗を責めて泣いていただけだと思う。
犬や猫、小鳥など、向こうの意思がわかって交流できる生き物は、死ぬとダメージが大きすぎるので、飼わなくなったけれど、死を悼み悲しいと思えるのは、その辺の生き物からじゃないかと思う。
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「死」が恐ろしいのは、さっきまで生きてやり取りのあったものが、突然ただの物体に代わるからで、中身が無くなって器だけになる、空っぽな感じが怖いんだと思う。
少なくとも、私は、いずれ、自分もそうなるという事を、見せつけられることが怖い。だから、極力見たくない。
虫に、中身を感じられるか、トカゲに中身を感じられるか、というのは、ほんとに個別の体験や感受性によるんだろうけれど、私は、カブトムシの幼虫がつぶれて死んでいても、気持ち悪い、怖いとは思っても可哀そうとは思わなかった。
命、というものはあるんだろうと思う。
動いて生きていることと、固まって死んでいるモノのの間には厳然たる違いがあるから、命というものが無ければ、その現象を説明できないので、あると思わないと、納得できないから、あると思っている。
それが「ある」と思っているから、死ぬのを見るのは怖いし、自分が殺して命を奪う事は怖いのだと思う。
でも、それは、かわいそうという感情からは、かなり離れたところにある。
「かわいそう」は他者に対する思い入れや、自身の投影が大きい。「私だったら、そんな目にあったら耐えられない、かわいそうに。つらかったね。」と、かなり共感出来る能力が無いと、わいてこない感情だと思う。
「怖い、気持ち悪い」は、よりリアルな自身のなまの情動。こちらの方が本能に近く、よりプリミティブ。
こどもは、虫を殺すことで、意識できないほどのちいさな「怖い、気持ち悪い」を積みかさねた上に、行為の主である自分に対して罪悪感が生まれ、それ以上の殺生にたいする「恐怖」という気持ちに発展するんじゃないかと思っている。
恐怖は、殺生にたいするストッパーになる。
そして、さらに成長したのち、共感性の高い子は「かわいそう」という理由を殺生を禁じる自分に付与するのだと思う。
だから、「こわい、きもちわるい」というなまの情動は思い切り、もういいと思うまで味わうべきじゃないかと思ってる。
たとえ、「かわいそう」とは思えなくても、それは、ほかの命に対する殺生のストッパーになるから。
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