面白い反出生主義

反出生主義とは、ざっくり言ってしまうと「新たな人生を始めることは(当人にとって)常に深刻な害悪であり、人間は、道徳的な義務として、新たな人間を生み出すべきではない」というものである。詳しくはこちらなどを参照していただきたい。
さて、これがなぜ面白いのか?それをここで語らせていただきたいと思う。

道徳とは

道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。

芥川龍之介   侏儒の言葉

まず、反出生主義は倫理、道徳上の問題であり、そこは揺るがせられないのだが、そもそも道徳とは、人間の利益、便宜のためのものなのだ。
盗みや詐欺が不道徳とされるのが例であろう。ある物に対し(本来支払われるべき)正当な対価が支払われないと、その物じたいが作られなくなり、(その物を誰も得られなくなることで)かえって全体の利益が損なわれる。等々。
しかし、反出生主義は(すでに生まれてしまっている)人間の利益に一切寄与しない、それどころか、むしろ害悪にしかならないのだ。人間の便宜のための道徳を突き詰めると、人間の便宜に反するものになる。これだけでも、この皮肉の効いた主題に面白さを見出す人は決して少なくないのではないだろうか?わたしとしてはそう思いたい。

反出生主義は正しい その一

反出生主義を擁護する根拠としてポリアンナ効果(自らの人生を、客観的に見た場合よりも良いものだと捉えてしまう錯覚)などが挙げられるのだが(だから、自らの人生に対する自己評価は、人生を始めてしまうことを肯定する根拠になり得ない)、錯覚とはそもそも避けられないものなのだ。
たとえば、等しい長さの線分Aと線分Bとが、周囲の装飾や模様によって異なる長さに見える錯視図形などが存在する。そういった錯視図形は、線分AとBとの長さが実際には等しいと知った後でも、やはり長さが異なるものとして見え続けるのだ。
したがって、ポリアンナ効果という錯覚を暴くことは、人間は錯覚し続けるし、避けがたい錯覚を基にした判断は決してなくならないということを証明してしまっているのだ。

反出生主義は正しい その二

また、(利用することを目的とした)なんらかの役割のために新たな人間を生み出すべきではない。というものがある(たとえば、こういった問題でクローン人間の是非などが問われるわけだが……自分の臓器の予備スペアを用意するために新たな人間を作る、などといった)。
その立場を採るならば、すでに生まれてしまっている人間も、なんらかの役割のために生まれてきたのではないし、(たとえ親の意図がどうであったにせよ)そうであってはならない。とならなくてはならないのだ。つまり、それを、子作りが不道徳たることの根拠に据える限り、「人間は必ず道徳にしたがわなくてはならない使命を帯びている」と結論することは、できなくなる。
したがって、(なんらかの目的のために人間が生み出されてはならないという立場を採る限り)「人間は必ず道徳的に生きなくてはならない」と言うことは、非常に難しくなるのだ。

反出生主義は正しい その三

反出生主義は、苦痛(不充足)を避けるべき絶対悪だと前提とする主義だが、新たな人間が生まれないことはどうやっても今すでに存在してしまっている人間に苦痛(不充足)を強いることになる。そして、「苦痛(不充足)を避けるべき」を否定することができない以上、人が(そのために子供を生み出すことまでは善しとしないとしても)充足を求め不充足を避けようと志向すること自体は否定できなくなる。
そうすると、けっきょくは、すでに生まれている既-存在と、未だ生まれていない非-存在(を擁護する側)との対立構造に陥らざるをえなくなるのである。
しかし、そういった対立構造を生み出してしまった時点で、反出生主義の実現は失敗しているのだ。なぜならば、この主義は、全人類が完全に一丸となって向かわなくては決して達成できない目標であるから(殖えない集団は殖える集団からも生まれ続けるだろうが、殖える集団が存在する限り、殖える集団もまた消え去らないのであるから)。

まとめ

便宜のための道徳が、なぜか便宜を破壊したり、主義の正しさの証明が、主義の実現が不可能であることの証明に陥ったりする。このような反出生主義の(避けられない)皮肉な構造は、知的好奇心をわずかでも具えている者ならば、興味を抱かずにいるのが難しいのではないだろうか?反出生主義に賛同しない人間にとっても、これはとても面白いものだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?