反出生主義は否定されるべき(酔っぱらいのたわ言)

  午前三時だ。私はいまのこの一秒を聴きとり、
次にまた別の一秒を聴きとり、毎分のバランスシートを炸裂する。
  どうしてこんな始末になったのだ?
――生まれてきたからだ 。(原文傍点)
  ある特殊な様相をした不眠の夜こそが、
生誕をめぐる論争に火を点けるのである。
(E.M.シオラン   生誕の災厄)


わたしが目にしたなかにこういう論法があった。
「同意のない強要は悪である。
なので出生することへの同意を得ていない出産は悪である。」
しかし、この論法はおかしい
無(存在していないもの)に強要することは不可能である。
出産は同意を得ていないから強要なのではなく、
強要が不可能なので同意を得ることもまた不可能なだけである。
生命の誕生は、言ってしまえばただの物体の動きに過ぎない。
そこに、尊重、あるいは否定されることが可能である意志はない。


生きているより生きていない方がいい。
しかし、自ら命を絶つのは言うほど簡単でも楽でもない。
周囲は腕ずくででも止めてくるし(これは本当だと実体験から言える。
自殺に罰則はない?いくら死ぬ意志をもって行動しても
身体は全力で生きようとする以上、未遂の可能性はあり、
その場合は罰に近しいことさえあり得るのだ。
むろん名目上は懲罰でなく保護だが。
自殺が容易で罰則もないなどとは、なにも知らない人間のたわ言だ。
しかし、それでいいのだ。知らない方がいいに決まっている。
そんなこと、知りたくて知るものじゃあない。そんなことは知らないまま
二度と目ざめなければ良かったに決まっている。)、
自分で自分にケリをつけるのはどんなリクツをつけたって怖い。
だから、そもそも生まれてこないのが最上なのだ。
そんな単純で平明な結論がなぜこうまでこじれるのか?
なぜその考えが、まだ存在してすらいない
赤の他人未満の非-存在にまで適用されなくてはならないのか?
なぜ誰もが同じ考えに賛同し絶滅への道を目指さなくては
気が済まないなんてことになるのか?理解できないよ。
そう、未来の子供のため……なんて名分にしかならない、
未だ存在してすらいないものをおもんばかるなど
無意味でバカげてる。ただの感情論以上のものにはなりえない。
存在するよりも存在しない方がいいという理論が
間違っているとは言わないが(その論の妥当性とかどうでもいいし)、
それを正しいと信じているのはけっきょく存在している自分たち以外では
あり得ない。ならどうして価値観の異なる他者へ対する攻撃的な言動が
実際にあるのか?答えは分かっている。
かれらは主義にかこつけて他者を攻撃したいだけなのだ。
かれらは出生に賛同、あるいは反対していないものを差別しており、
差別するためにこそ、出生に反対しないものは悪
などといった偏見を自ら抱いているのだ、
人は自分の見たいものしか見ないという確証バイアスに操られて……
過去にわたし自身が述べたとおり――自説の通りに――
人が動いている様をみて、わたしは喜ぶべきなのだろうか?
気分は最悪に近い。


反出生……というか、人間は生まれないのが最上
なんてのは大昔からある考えで、しかし現在まで人類は存続している。
この事実だけでも、反出生が多数派になり実践される可能性など無い
と分かるし、今さら声を大にして宣伝しなくても
反出生的な考えがまったくの零になることだってないとも分かる。
異なった考えを持つ人たちや、すでに子供を産んだ人たちに対して
攻撃的になるのは醜いだけだし、
出生を賛美する人たちから反出生が攻撃されたから
自分たちも攻撃し返す?
現世はそういう闘争的な世界でしかあり得ないからこそ
人は生まれないのが最上なんじゃないの?
自分で自分の主張を台なしにしないでよ


そう、現世は最悪、人が生まれるべきではない世界。
だからこそ、新たに人を生み出すべきではないと主張する反出生は
正しい思想になり得るのであって、その最悪な世界で、
正しい思想が正しいものとして認められる可能性なんて無い。
反出生は、現世にあっては敗北が宿命でありアイデンティティなのだ。
反出生が、最悪な現世のなかで多数派になろうとして
権力を志向する姿勢は不条理でしかない。反出生を掲げるならば、
自らの主義主張を正しいものだと信じていればこそ、
人が生まれるべきでない世界においては
まったくの無理解と最悪の迫害を受けることを求め欲するべきなのだ。


肝心なことはひとつしかない。敗者たることを学ぶ――これだけだ。
(E.M.シオラン   生誕の災厄)

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