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反出生主義と賢さについての私見

反出生主義は誰も新たな人間を生み出すべきではないという主義である。

人生は、幾重もの苦痛に彩られており、その多くは避けがたい。そして、人生がそもそも始まっていなければ、得がたく価値のある幸福でさえ、必要ではない。
そうしてみると、誕生とは、誕生する当人にとって深刻な害悪なのではないか?と考えられる。そこから上記の主義が持ち上がってくるのである。

知性をもつ者ならば誰もがこの結論に行き着くはずであるとか、この主義が正しく理解されれば必ず賛同を得られるはずだとか、これに賛意を示さない、反発する人間は知性がないだとか言う人たちがいるが、わたしはそうは思わない。

反出生主義は、「人間(感覚を持つ生物)は快楽を求め苦痛(欲求の不充足)を避けたがるもの」、というのが大前提とされている。
反出生主義それ自体は、既に生まれてしまった存在のことは考慮しないとしても、生誕が当人にとって害悪であると結論づけるためには、生物の至上目的は「一個体としての苦痛(不充足)の回避」であり、そこに例外などあってはならないのだ。

反出生主義は、人類の歴史を紡いでいくだとか、国家など共同体の維持などよりも、一個体としての苦痛の回避の方が重要であると考えなくては、成立しない。死すべき存在の人間が新たに生まれないことは、必然的に絶滅を意味するのであり、苦痛を覚える主体を発生させないことこそを最優先とするなら、歴史や共同体等を、人類が自主的に切り捨てる選択をせよと主張せざるをえないのだから。

生物の最優先課題は一個体としての苦痛の回避――これは既に存在してしまっている者にも当てはまり、当然、反出生主義者自身にも当てはまらなくてはならない。
しかし、反出生主義そのものは、既に存在してしまっている者の幸福には寄与せず、むしろ害悪しかない。人口が先細りになっていく社会は、(過度な人口の急増との比較でない限り)そこに住まう人間にとって良いものにはなりえないからだ。
すなわち、反出生主義自体は、(新たな苦痛を生み出すべきではないという)大義のために自らの苦痛は受け容れるべきであるとされなくてはならない。
では、「生物(知性の有無にかかわらず)の最優先課題は一個体の苦痛回避である」にも関わらず、自らの知性を自らの苦痛の回避のために用いないことは、賢い選択および行動であると言えるだろうか?すくなくとも、わたしは言えないと思う。

目的、課題がはっきりとしているのなら、それをもっともよりよく叶えるために動くことこそ賢さであるはずだ。等間隔に並んだ点が複数列ある場合、一つずつ数えて全体の点の数を求めるのと、一列の点の数と列自体の数とのかけ算で全体の点の数を求めるのとではどちらの方がより賢いやり方であると言えるだろうか?数を数えるのが目的であるならば、その目的をより少ない行程で叶えられる方が賢い選択である。
また、点を右端や左端から順番に数えるのではなく、数えるたび全体の中から点を一つ一つ無作為に選び出しながら、一つ二つ三つと数えていくのであれば、点を数えるという目的は非常に達成しがたいものになってしまうだろう。これは賢いやり方と言えるだろうか?

わたし自身は反出生主義そのものを否定する気は無いし、むしろ支持したいと考えているが、それは「生まれてこない方が良かった」という私的な感情から生じているもので、けっして反出生主義こそが真理だ等と考えているからではない。
反出生主義の理論の構築に、知恵や知性が用いられているとしても、そのことが反出生主義は完全に純粋な知性の産物であるという証明にはならない。
知性は目的を叶えるための道具でしかなく、人間の感情や欲求を出発点としない純粋な知性そのものから、何か特定の主義主張が直接導き出されることはあり得ない。快楽や残忍さを求めるなら、そのためにこそ知性を用いるということも十分可能であることが、なによりの証明であろう(そうでなければ、なぜ奸知や狡知という言葉が存在するのか?)。

けっきょくのところ、すべての反出生主義者がそうではないとしても、多くの反出生主義者は、無へのあこがれや、現世、人生への否定的な評価等から、自分あるいは誰かの「生まれて来たくなかった」という決して叶わない願望を非-存在へ仮託しているだけに過ぎないのではないかと思う。すくなくとも、わたし自身はそうだ。
それは賢さなどではない。

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