なぜ反出生主義は道徳的に正しいと言われるのか

道徳的現象などというものは全然存在しない。あるのは諸現象の道徳的解釈だけにすぎない。―― ――

善悪の彼岸

反出生主義とは、快苦の非対称性反失望主義的な見方から、「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」ということを前提とした考え方であり、そのことを前提とした場合、出生は道徳的に悪であり、「人は新たな人間を生み出すべきではないという道徳的な義務を負う」と結論されるのである。
なぜそのようになるのかを少しでも解説できたなら、本記事の目的は達成されると思う。

正しさとは

私見となってしまうが、以下を参照していただきたい。
言ってしまえば、正しさとは、目的に対する利便性を表す言葉にすぎない。

道徳の規則

一般的な道徳の感覚においては、幸福を与えることよりも害を与えないことが優先される。

私たちには苦痛を被る人々を存在させることを避ける義務はあるが幸福な人々を存在させる義務がないのは、私たちには害悪を避けるという消極的な義務はあるが幸福をもたらさなければならないという積極的な義務は全く付随してこないからだ、ということは示唆されるだろう。

生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪

たとえば、犯罪は絶対に犯すべきではないとは言われるが、寄付を絶対にしなくてはならないとは、なかなか言われないだろう。また、妊婦や高齢者など、立っていることが苦痛になり得る人物に対して、座席を譲ることは推奨されるが、若く健康な人物に対して、かれらが楽をするために座席を譲らなくてはならない、と言われることはない。

見解を規則に当てはめる

すなわち、反出生主義とは、苦痛は避けるべき絶対悪であるという価値観のもとで、「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」という見解を、道徳の規則に当てはめることで、はじめて生じてくるものである、ということである。
誰かが、道徳に沿うという目的をもつ場合、誰も新たに生み出さないことこそが、その目的をもっとも簡単に効率よく最大限に達成できる……つまりは、新たな人間を生み出さないことこそが、かれの目的に対してもっとも便利な手法である、と結論されるだけのことなのだ。

実際のところ、存在してしまうことは彼らの利害では全くないのだから、道徳的に望ましい行為をしていくには、その彼らが存在しないということを確実にすれば良いのである。

生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪

ゆえに、反出生主義は、道徳のみの問題であり、道徳から外れて存在することはできない。


余談だが、わたし個人は反出生主義に賛同しているけれど、反出生主義は真理だと確信しているわけではないし(そもそも真理など無いという立場)、存在と非存在を比べてしまうことはちょっとナンセンスを含んでいると考えているし、人間は必ず道徳にしたがって行動すべきだとも思っていない。
言ってしまえば、わたし自身が「生まれてこない方がよかった」と考えているから、反出生主義に賛同しているだけという面が大きい。そんなものである。

さて、人生に満足できないのに長々と考えるより、歌を聴いていた方がいいだろう
じゃ、一緒に口遊もうか

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