忘却曲線の彼方で、ギアファンへの愛を灯火に走る

本記事は全文無料で読めます。

ちょっと言わ言うに近い話かもしれないけど、今言う必要があると思ったことなので。

今まで観測したギアファンのファンアートを、これまで全て印刷して手元に持っていた。
自分にとって、とても大切な宝物。
しかし、それをいったん手放すことにした。

一見、それはファンを大切にしていない行為に見える。
しかし、私の中では明確に「ファンも、自分も、大切にする行為」なのである。
それについて、説明をさせていただきたい。

ここら辺も参照。

私はすでに、承認がなくとも自走できる

まず、私は1年と9ヶ月の間ギアファンを連載しつづけたことにより「外部からの承認によらず自走できる」ようになった。

だからこそ、「ギアファンのファンへの執着」を手放せるようになったのだ。

これまでは「気心の知れた仲間内でワイワイやること」を、作品作りよりも大事にしていた側面が強かった。
しかし、それだと自分の本当にやりたい創作が濁ってしまう部分がどうしてもあった。

ファンに嫌われない創作でなければ、表に出してはいけない。
そういう気持ちがあったのだ。

しかし、私は完全に自走できるようになったことで、ファンに嫌われることを恐れる必要がなくなった。
そして「ファンが、自分の好きなようにギアファンを愛すること」に対して、手放しで歓迎できるようになった。

つまり「私はファンの創作活動に自ら干渉することがない代わりに、他の人に迷惑をかけることがなければファンには何をやってもらっても構わない」と明言できるようになった。

これは、ファンからすれば私から境界線を引かれたようで、中には居心地が悪い人もいるかもしれない。
しかし、これは「ファン自身が、自由な形でギアファンを愛するため」に必要な処置なのである。

私がファンの創作に口出ししてしまえば、ファンがギアファンに対して自由に抱いていたイメージに濁りが生じる。
それではいけないのだ。あなたの中のギアファンは、あなたの中に間違いなくあるものだから。

私は誰の承認も必要とせずに原作を描く。
そしてファンは、私の承認を必要とせずにギアファンを愛する。
互いが心地よい距離にいられる方法を、作者である私はようやく掴めるようになった気がする。

適切に「雑」がやれるようになった

もう一つ。
私がギアファンのファンアートを印刷して持っていたのは、それを手本にキャラクターを描いていたということもある。
私が見落としていた部分を補強してもらって、その力を借りて「より自分にとって正しい作画」を目指していた。

しかし、その段階はもはや過ぎ去った。
私はファンアートから「それを構成している公式」を抽出し、持ち運べるようになった。
たとえ表面的なものを忘却したとしても、公式を覚えているからこそ、適切に「雑」ができるようになった。

適切な雑とはつまり「ここだけ押さえておけば大丈夫」が分かったということである。
それはあきらめであり、捨てる力であり、身軽になることでもある。

私はファンアートから学ぶ段階を卒業した。
だから、ファンアートを手元に置いておくことに縛られる必要もなくなったのである。

適切な雑がやれれば、身軽になり、加速できる。
速さは美しさである。
加速し、多くを生み出し、それをファンに毎日提供する。
心地よい速さ。それこそ私の求めていたものである。

なんのために加速するのか。
私が始めた物語を、私の手で終わらせるためだ。
正しくとどめを刺してやるためだ。

物語にとどめを刺せないのなら、それはまだ速さが足りないということだ。まだスロウリイなのだ。
だからとどめを刺すために、時速200kmを出さなければならない。

月に行く必要はない。あるわけがない。地球の方が、カップラーメンが宙に浮かない分だけ過ごしやすい。地球は空気があってすごい。けれども、黒字を出したら月に行くしかない。つまり、それがどんなに意味不明であっても、次のステージを設定する他ない。
宇宙空間に飛んでいく。その先のことはどうでもよい。月にはいくが、月はどうでもよい。大切なのは、加速を楽しむことだ。速いものは美しい。飛んでいくものも美しい。だから、月に行くしかないのだ。

私は月へ行こうとしている。
いつかたどり着く月面で、ギアファンという物語の心臓に、しずかにナイフを突き立てるために。

そして終わらせた先に、また生まれるものがある。
輪廻転生。生と死。破壊と再生。おわりとはじまり。
私はそれを信じている。だから加速するのだ。

ここから先は

90字

漫画を描いたり、日常生活を送ったりしていく中で得た気づきを残していきます。 一回1000円ぽっきりで100本以上の記事が読めるのでオトクか…