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納得して生きる姿が、誰かに命を吹き込む

どうも、生活保護ちょっとはたらくギアファンやる人のもろこしです。
去年の7月から生活保護を受給し、11月からA型事業所で短時間労働をしてます。
その傍ら、月1で漫画『ギア・ファンタジア』を描き、体力と時間がまだ余ってるので週1のボランティアにも通い始めてます。
あとはたまに自炊したり、note書いたり、その時の気分によっていろいろやってます。

敬語だとちょっと文章を書きづらいので、以下の文章はタメ口で話しますね。

さて。
生活保護を受給し始めて、半年以上が経つ。
このままいけば、生活保護を1年は受給することになるだろう。

働いていようと生活保護だろうと、わりと誤差

1年前の私だったら、この現状にちょっと嫌な顔をしていたかもしれない。
しかし何か月か前に、知人から「国を税金で回している人のほとんどは、ものすごく稼ぎのある人たちだよ。普通の社会人程度の稼ぎだと、納税額より社会から受ける恩恵の方が大きいから、生活保護になるのって正直国にとっては誤差なんだよね」という話を聞き、今の私は生活保護になったことの後ろめたさはすっかり払拭されている。

生活保護になって国に奢られようとも、働いて納税しようとも、国としては正直そんなに変わらない。
それならしばらくは大人しく国に奢られて過ごそう、と思えた。

じわじわと良い変化が起こってきた、ここ1年の暮らし

とはいえ、自堕落に暮らしていけばいいやとは思っていなかった。
生活保護の受給が始まってからすぐにハローワークに通い、A型事業所に就職し、そこから病気等では休まずに半年通い続けている。
空いた時間は漫画を描く他にも、ジョギングを始めたり、自炊をちょっとやってみたり、編み物を始めてみたりと、主に「お金のかからない、健康的な趣味」を構築できないかな~と模索し続けてきた。

また、生活費を差し引いて余ったお金は、全部他人と会ったり、他人に何かしたりするために使った。
遠くに住んでる友達とお茶したり、誕生日プレゼントを贈ったり、友達がイベントをやる時はなるべく時間を合わせて行ってみたり。

そんな生活を1年近く続けていると、何やら緩やかだが、確実な変化が起こった。
身体と精神の調子がすこぶるいいのだ。
1年前はちょっと人と会うだけでもヘトヘトになっていたのが、今では前ほどの疲れがない。
なんなら、8日間連続で人と遊んでもピンピンしてたぐらいである。

そんな風に元気に友達と会い続けていると、少しずつではあるが、頻繁に会う友達が増えてきた。
今では、休みの日は友達と会う約束がほぼ必ず入るようになった。

仕事もどんどんローコストになり、生活に溶け込んできて、今では休日と平日の境目がほぼ存在しないぐらいに負担を感じなくなってきた。
(もともと「鼻ほじりながらでもできるレベル感の仕事」として選んだ仕事だったので、ローコストになっていく過程でも「仕事休みたいな…」というほどの負荷はあまり感じなかったのもあるが)

なんなら、遊ぶ予定が無い日でもボランティアに行ったりしてるので、最近はほぼ毎日、他人と一定時間以上は接している状態になっている。
なんだか、それが特にいい影響を及ぼしている気がする。
少なくとも、求職期間中にあまり人と関わっていなかった頃よりずっと元気で明るくなった。

働こうが生活保護だろうが「納得して生きる」ことが大事だと気が付いた

この1年は、手探りでいろんなことをやってきたが、それらが全てうまくかみ合って、今の元気で明るい状態を構築しているのだと思う。
何がいい影響を及ぼしていたのかというと、その行動基準が全て「自分が納得した姿を周囲に見せたい」だったからだと思う。

私は「今の自分に納得をして生きてる人」をカッコいいと思う。
自分の好きなところも嫌いなところも、全部ひっくるめて「これは自分だ」と認めて生きているからだ。
その姿はとても力強い。

昔の私は今の自分に納得ができておらず、他人に助言を求めたくせに「何が正しいんだろう」と迷い、苦しんでいた。
しかし、そうしたことを繰り返す中で、ある時「自分がこれと直感したことをやろう。やれば、どんな結果になってもきっと納得がいくはず」という発想が舞い降りた。
それから、私はとにかく「やろうと思ったことは、助言をもらう前にまず自分でやってみよう」という方針に転換した。

そうすると、何が良かったか。
「成功も失敗も、全て自分で責任を負う」ことができるようになることだ。
もちろん、失敗した時の痛みは他人に責任を負わせていた頃より大きい。
しかし、その痛みすら「心地よい」のだ。
それは自分で選び取った痛みであり、いま必要な痛みだったからだ。

自分で決めて行動する、そう方向転換したことで、私の人生は劇的に良い方向に進んでいる。
生活保護も心からの納得のうえで申請することができたし、申請が通らなかったら私に落ち度があったんだな…と自分で責任を負う覚悟ができた。

そうすると、他人から受けるアドバイスの形も変わってきた。
これまでは行動する前にアドバイスを求めていたので、アドバイスする側も憶測でしか話すことができなかった。
しかし、私がまず具体的な行動を示すことで「次からはこうするともっと良くなるかも!」とより具体的なアドバイスがもらえるようになった。
まず行動することで、その自分の行動にフィットした形のアドバイスがもらえるようになってきたのだ。
フリーランス時代に、先輩から「まずたたき台を示せ」と教えられたことがここで生かされることになろうとは。人生何が起こるか分からないものである。

納得して生きる姿が、誰かに命を吹き込む

この「納得して生きる姿」を周囲の人間に示すことこそ、お金以上の形で社会に対して与えられる恩恵なのではないか?最近の私はそう思っている。

私の所属している読書サークルで、ある時、誰かがこう言っていた。
「ここでは皆が多様な生き方をしているのを知ることができる。その多様な生き方が存在することこそ、今生きている人間や、後に生まれる人間が『ああ、こうやって生きることもできるんだ』と自分にフィットした生き方を見つける手助けになるんだと思う」

つまり、「納得して生きる」ということは「周囲の人間にミームを渡す」ことであると思うのだ。

ミーム(meme)とは、脳内に保存され、他の脳へ複製可能な情報であり[2]、例えば習慣や技能、物語といった社会的、文化的な情報である[3]。『日本大百科全書』における人工知能研究者の中島秀之の説明によると、ミームは文化的自己複製子であり、ミームは比喩(ひゆ)ではなく遺伝子と同じく実体である[4]。『利己的な遺伝子』によれば、ミームは脳神経回路の型である[5]。ミームが脳の外へ複製された具体例としては衣服、壺、アーチ、宗教的行動、科学者の講演、論文などが挙げられている[6]。

Wikipedia「ミーム」

ミームとは、いわば概念的な遺伝子のことである。
遺伝子に刻まれずとも、誰かが残したものを他の誰かが受け継ぎ、伝えていくもの。
(ちなみに「ネットミーム」という言葉も、このミームから来ている)

自分に納得して生きる姿は、それを見た他の誰かに「こんな風に生きたい」と思わせるパワーを持っている。
現に、私は今までたくさんの人の生き方を見て「こんな風に生きたい」と思ってきた。

そして、私自身も自分の生き方をミームとして誰かに渡せている、という実感を、最近は持ち始めている。
少なくない数の友人や知人から「もろこしさんのやってた〇〇、私もやってみた!」という話を聞くようになったのだ。

自分が身をもって示し続けてきた「納得した生き方」が、他の誰かに命を吹き込んでいる。
それこそが、私が社会参加を諦めずに続けてきた理由であり、金銭的には社会に影響を与えられない「普通の人間」が社会に与えられる、もっとも大きく必要不可欠な恩恵だと確信している。

最後におまけを。

お知らせ


こんなイベントやります。
やだ…自力でオンリーイベントをやる一次創作漫画、つよすぎ…?

みんな、ぜってえ来てくれよな!!

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