近代スポーツとフリースタイルフットボール
ロシアのレジェンド Bengau がInstagramに
こんな投稿をしました。
ざっくり和訳すると
ボールを落とさないように練習をすることは大事だけど、それはバラエティに富んだパフォーマンスやビートへのこだわり、スタイルの表現よりも大事か?このままではアートやスポーツといった側面を持つフリースタイルフットボールが全体としてスポーツの方向になってしまう。バトルがもはや30秒×3ターンのルーティンでしかなくなっている。
30秒×3ターンのルーティンというところが
実に言い得て妙である…。
イメージとしては、体操競技ですかね。
あらかじめ技の構成を提出し
それにそってパフォーマンスする。
体操競技は、その提出された演技構成をもとに
Dスコア(difficulty 難易度)
Eスコア(excellence 出来栄え)
の主に2項目で点数化されます。
その他、組み合わせ加点などがありますが
難しい技を綺麗に決めれば
点数が高くなるわけです。
話は少し逸れますが、
今、スポーツと呼ばれるものは
近代スポーツに端を発しています。
そして、その近代スポーツの発展というのは
定量化と合理化によってもたらされました。
定量化とは、数値化のことです。
今では当たり前のように感じますが
昔は距離を競うにも
紐5本分というレベルの雑な測定でした。
合理化とは標準化とも重なる部分があります。
つまり、あらゆる差異を無くし
みんなが同じ条件で行えるようにしよう
という動きです。
昔、体操競技の鞍馬は
本物の馬で行われていましたが
馬によっては不公平が生まれるため
それなら馬に模した台でいいじゃないか
ということになり今の形になりました。
もしフリースタイルフットボールが
Bengauの懸念するような道を辿るとするならば
間違いなく"スポーツ"として発展するでしょう。
ドロップの量を気にすることは
まさしく定量化そのものであり
それが過度に進んでいけば
フリースタイラー間の不公平さを無くすために
ボールを統一したり、服装も決められたりする
可能性だって否定できません。
そして、いつしか
技だけに意識が向き
体操競技のように各技に点数が与えられます。
しかし、多くのフリースタイラーは
それはあり得ない、嫌だと言うでしょう。
フリースタイルフットボールは
ダンスやヒップホップといったカルチャーに
多くの影響を受けており
アートとしての側面を備えています。
特に、バトルの文化はまさにその代表例です。
お互いのフリースタイルフットボールに対するスタンスやアティテュードをぶつけ合う場で、それはドロップ数だけに反映されるものではありません。
ある人はボールと踊るように動き
ある人は極限まで極めた繊細さを披露する。
そういった、さまざまな姿勢や向き合い方、
表現こそフリースタイルフットボールの
最大の価値だと思います。
Bengauの言うように、
バラエティやビートアプローチなどにも
それらが表出されます。
ドロップ数を極限に減らし難易度を求めた
パフォーマンスをしたいだけなら
superballのshow flowに出ればいい。
バトルにこだわる必要があるでしょうか。
しかし、スポーツの方向に発展すること自体が
悪だとは思っていません。
フリースタイルフットボールの良さは
複雑な身体運動にもあります。
リフティングという一般の人なら
ただでさえ難しい運動に
他の動きを要するわけですから。
それはもはやスポーツとしての価値であり
(スポーツ科学の分野では
しばしば卓越性という言葉で表されます)
それに対して励むのだから
フリースタイラーはアスリートである
とも言えます。
したがって、スポーツとしての発展は
フリースタイルフットボールが
今後も歩むべき道であるとも言えます。
大切なのは、
フリースタイルフットボールが
一方ではスポーツとしての価値を競い
また一方ではアートとしての価値を認める
というように、
様々なフリースタイラーが輝けるような
文化にしていくことではないでしょうか。
そして、そのためには
それらが適切に行われるような場を
作り上げていくことが求められますし
フリースタイルフットボールの価値を
見直すことも必要です。
今回のBengauの言葉は
単なる現状に対する批判ではなく
フリースタイルフットボールの未来を見据えた
有意義な議題となるのではないでしょうか。
と、同時に
自分自身のフリースタイルフットボール観の
捉え直しもできるのではないでしょうか。
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