群像の感覚
一年前にSNSで見かけたこの投稿。フリースタイルフットボールでまさに起こっていることなのではないか、とその時に思った。そして、一年の時を経て、思ったことを記事にしてみる。
ここ数年、SUPERBALLをつまらなく感じてしまっている。もちろん毎年、欠かさず観るようにはしているが、明らかに自分がフリースタイルフットボールに興味を持ち始めた時よりもモチベーションは低くなっているし、チェックするバトルも少なくなってきている。自分としても寂しく感じる一方で、最近の潮流を鑑みると、あながち仕方のない部分なのかもしれないとも考えるようになっている。完全に老害の思考回路だが、フリースタイルフットボールの魅力がより広く、そして深く伝わるために重要な視点だと思うので書いてみようと思う。
フリースタイルフットボールでもいつかM-1のように、大会の様子が地上波のテレビで生放送される日が来るなんてことをたまに考えるが、果たして一般の人に大会を見てもらった時に、フリースタイラーと同じように盛り上がってくれるのだろうかということも考える。もちろんまるっきり同じように盛り上がることは不可能だ。技に対する知識もないし、ジャッジ基準なんて我々フリースタイラーでさえいまいち分かっていないのだから、況んや一般の人においてをや、である。今夏のオリンピックでブレイキンが正式種目として採用されて注目を浴びたが、会場にいた人たちがどこまで理解できて、その上で盛り上がることができたのだろうか。
フリースタイルフットボールもいつかオリンピック競技になってほしい。そう願うフリースタイラーは多い。しかし、実際に正式種目として採用されても、大して盛り上がることなく終わってしまえば「あれは結局なんだったの?」と思われてしまいかねない。かつて地上波の深夜帯に放送されていたラップバトルの番組『フリースタイルダンジョン』は、その瞬間こそ大いに盛り上がったが、それ以降市民権を獲得したかというと疑問が残る。これはかつて『マツコ会議』という番組でCreepy Nutsが出演した際に、DJ松永氏が涙ながらに語っていた。
ラッパーが示したかったのは自分たちの胸のうちに秘めた魂、ヒップホップとは何ぞやという部分。それは時に暴力的で歯止めが効かないようなことも含まれる。そもそもヒップホップの起源は、ニューヨークのブロンクス区における貧困層による革命であり、そこで巻き起こされる種々の抗争を暴力なしで決着させようと発展してきたもの。時代は移り変わり、現代ではパワハラやセクハラなどが過去の遺物として徐々に排除され、同時にテレビなどのマスメディアでも暴力的な内容のものは激しく糾弾されるようになった。端的に言えば、コンプライアンスに厳しくなった。そういう世の中になれば、テレビに出る人間はそういったことへの配慮がなされているものだと潜在的に思ってしまうのも無理はない。しかし、フリースタイルダンジョンに出演してきた人たちは必ずしもそうではなかった。本来はその姿こそがヒップホップの源流にあるにも関わらず、世間はまるで裏切られたかのような反応を見せた。
そもそも世間が盛り上がっていたのは「あれだけ即興で言葉を出し続けるなんて凄いよね」という、いわば、職人の如く地道に修行して磨き上げてきた技術に対する賞賛によるもの。一方で、ラッパーが伝えたかったのは、自分たちの魂の部分であり、口が達者なことではない。なぜこのような実際と世間との乖離が生まれたのかについて、マツコデラックス氏は「テレビだから」と語ったのだ。
話を戻して、フリースタイルフットボールがテレビなどのたくさんの人の目に留まる場所で露出されることを望むフリースタイラーは多いが、フリースタイルダンジョンと同じように一過性のブームで終わってほしくはないはず。しかし、それは意図せずとも起こってしまう。もちろん、ラッパーのように大麻をしている人はいない(はずだよね?)。そういう類の問題は起こらないだろう。そうではなく、業界の中にいる人間と、それ以外の一般の人間とでは同じものを見ていても感じ方が異なり、なんとなく周りの人たちが冷めてしまうということがフリースタイルフットボールにおいても現実的に起こり得るということだ。つまり「なんか思っていたのと違う」と、スベる可能性が大いにある。
伝えたいことを突き詰めていく中で物事は高度化、専門化していき、カルチャーの中にいる人間と外から見る人間との間で乖離は大きくなる。それが個人の内面で収まる分には好きにやってくれて構わない。思想を深めていき、より洗練されたものへと昇華させていく営みはあって然るべきだ。しかし、業界としてその傾向が強まると、コア層には響いてもライト層には響かなくなる。いわゆる「オタク化」だ。オタク化が進んでいくと、自分たちの常識と一般の常識の乖離に気づきにくくなる他、「これが俺たちのカルチャーだ」と強く顕示したい気持ちが"過度に"表れ出てしまうこともある。
例えば、パフォーマンスをする時に、普段JAMなどでフリースタイラーが互いに見せ合う技だけで構成した場合、観客はどう思うだろうか。もちろん拍手をくれるかもしれない。ただ、その拍手は観客が自発的にしてくれたものなのかは怪しい。「はい!みなさん!拍手!」と煽ってからでないと拍手をしてくれない。そういうこともある。場合によっては、その状況を1人でスベってしまっていると捉えられかねない。どうしてスベってしまうのか。これがまさに、過度なカルチャーの顕示だ。こういう話をすると「じゃあ、大道芸人のように大衆向けの技だけをやるのがパフォーマンスなのか」と思われてしまうかもしれないが、そういうことが言いたいのではない。大事なのは、我々フリースタイラーと一般客の間に乖離があること、そしてその原因を知るということにある。
我々が普段JAMで互いに見せ合う技が観客に響かないのなら、その技に魅力がない、ということにはならない。再三述べているように、まずは観客に前提知識がないというのが原因の一つだ。したがって、その前提知識を共有することが求められる。クラシック音楽を聴かされて「モーツァルトの第何番第何楽章のあの一小節はこんなにも素晴らしいのです」と言われたところで我々には分からない。それは我々が普段クラシック音楽に触れていないからだ。しかし、クラシック音楽が数百年の時を超えて今なお耳にする音楽であるということは、それだけ素晴らしい音楽であることの証左に他ならない。自分には分からないから、その音楽には魅力がないという結論は間違っている。では、なぜクラシック音楽は一般の人には理解されにくい芸術となってしまったのか。もうお分かりかもしれないが、高度に専門化してしまっているからだ。前提知識を持とうにもハードルが高く、加えて愛好家の間だけで話がどんどん進んでいってしまっているオタク化が発生しているからだろう。クラシック音楽以外の例でも構わない。例えば、アニメ、アイドル、ゲームなどもそうだろう。比較的若い世代に支持されている文化であるため、理解されやすいかもしれないが、一歩外に出れば何が魅力なのか分からないという人がたくさんいる。今はそういう小さな文化圏がいくつもあり、それぞれがそれぞれのやり方で文化を深めていっている。結果的に外からの視点が失われてしまい、中にいる人間にとっては当たり前の前提知識が外にいる人間にとっては当たり前でないということが分からなくなってくる。
その当たり前の前提知識が一般客と共有されていなければ、パフォーマンスは盛り上がらないし、究極的にはフリースタイルフットボールを魅力あるものとして感じ取ってはくれなくなる。我々がクラシック音楽に対して理解し難いと思っているのと同じように。しっかりと前提知識、もっと言うとフリースタイルフットボールというカルチャーがこれまで積み上げてきた歴史とともに存在してきた文脈を共有しない限りは一般客を魅了することは困難だ。
ここまで、フリースタイルフットボールが中の人間と外の人間とで乖離があって理解されにくいという話をしたが、実はこの乖離はカルチャーの中でさえ発生しうる。つまり、前提知識や文脈を共有されていないがために評価されないという状況である。これが引き起こされたのはコロナ禍でオンラインでの開催となった世界大会、RedBull Street Style 2020 だ。この大会にバトルの第一線から退いていたJF3会長の横田陽介氏が出場したものの、予選敗退という結果に終わった。本人が後に結果を受けて原因の分析をした動画がYouTubeにアップロードされたのだが、そこで語られていた2つの原因の2つ目に挙げたのが「自分のオリジナリティが伝わらなかった」というものだ。陽介さんは今我々が当たり前のように見たり聞いたりチャレンジしたりする技をいくつも作った、レジェンドフリースタイラーの1人。ご存知の方も多いだろうが、マゼランやプラティニは陽介さんのオリジナルである。それらをふんだんに取り入れた30秒のフローを予選動画として提出したものの、そもそも陽介さんがオリジナルであるという文脈を共有しきれなかったがために、自身の想定とは違う評価をされてしまった。
これは、同じ動画内でも語られていた「30秒の中にどれだけ難しい技を詰め込めるか」という昨今のバトルにおける傾向とも関係しており、それこそ冒頭で述べた私がSUPERBALLをつまらなく感じている理由の一つである。背後にある前提知識や文脈を捨象して、一つ一つの技をそれ自体の特徴だけで認識してしまっている。確かにバトルは時間が限られているし、今は観ている人のほとんどがフリースタイラーだから、わざわざ丁寧に説明しなくとも皆がわかっているだろうし、そういったものを切り捨てる方が他の技を詰め込むなどできる点で得策と言える。しかし、それが伝わる間柄で完結するならそれでいいのかもしれないが、より大局的な視点で見たときにそれがフリースタイルフットボールの未来に繋がるかというと、私にはいささか疑問を覚える。
今後、フリースタイルフットボールが内輪ノリではなく、冒頭に述べたように地上波で放送されるぐらい、オリンピック競技として採用されるぐらい一般客を巻き込んで盛り上がってほしいのなら、自分が好きなこととか表現したいことを極めていくのと併せて、一般客に伝わるにはどうするべきか、一般客は何を求めているかを考える必要がある。一般客を前にパフォーマンスをする人はむしろ後者をベースに考える必要があるとすら私は思う。その考え方を林修氏の表現を借りて私は「群像の感覚」と呼んでいる。つまり、自分ではない多くの他者がいる集団の中で自分や自分の行動がどう位置づけされるのかを感じ取る感覚のことだ。普通の人は自分と関係のないものに興味を持てるほど暇ではない。それは自分を顧みればすぐに分かる。どんなに素晴らしいとだけ言われたり見せられたりしてもクラシック音楽のこと、あるいは昆虫のこと、地方の特産物、工業製品などを調べようとは思わない。兎にも角にもまずは知ってもらうことから始まることは言うまでもないが、自他との関係性、そこで共有されていなければならない知識や文脈は一体なんなのかを考えなければならない。フリースタイルフットボールの未来のためにも「群像の感覚」は失わずにいたいものである。
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