ジブリはお好きじゃなくて?
「わたし、あなたに言わなきゃいけないことがあるの」
夏の夜の新橋。老舗居酒屋のカウンターで彼女と2人、麦酒を飲んでいた。彼女は酒に酔った顔を少し赤らめて、急にそう切り出した。
「前から言わなきゃいけないって思ってはいたんだよ。
でも、なかなか切り出せないでいるうちに、時間が過ぎちゃったの」
「今から話してもいい?聞いてくれる?」
正面を向きながらうつむき加減に、オレの目を見ないで言う。
なんだろう?心当たりは全くない。オレの心を不安がよぎる。
オレはグラスに残っていた麦酒を一気に飲み干し、さらにビンに残っているのを継ぎ足す。不安を飲み込むように、それをグッとあおって息をついた。
彼女がこんな改まって、意志をこめてオレに何かを伝えようとしてくるのはめずらしい。
カウンターごしに見える、無音のテレビの映像は、メイを探してサツキが裸足で走っているシーンだった。全力で走る両手には、途中で脱いだサンダルを持っている。
「なに?言ってみてよ」
不安を胸に隠しながら、オレは平然と言う。
カウンターの隣で飲んでいるおっさん3人組がヒステリックで不快な笑い声を響かせている。舌打ちをしたくなるのをこらえ、オレは眉をひそめる。
「うん。とってもいいづらいんだけど、言うね。怒らないで聞いてね」
どんな話が出てきても決してうろたえまいと、強く覚悟を決めて、オレは彼女に顔を向けてゆっくりうなづいた。
今度は彼女もオレに顔を向けて、別れ話でも切り出すかのような深刻な表情をしていた。それが痛々しくてオレのほうが顔を背けてしまった。
そのまま話を待っていると、背中のほうから静かに彼女の声が聞こえてきた。
「わたしね、」
「わたし、実はね、」
彼女に背を向けたまま、次の言葉を待った。手持ちぶさたのオレは、麦酒のなくなったグラスを、あおるふりをする。
意を決したように、彼女は口を開いた。
「わたし実は!」
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「ジブリが好きじゃないの!!」
一瞬、2人の間の空気が凍った。
思わず振り向くと、彼女は大きく目を見開いて、オレを見つめていた。
「どうしても好きになれないの!」
「でもあなたはジブリが好きでしょ?だから、今までずっといい出せなかったの。わたしのこと、キライにならないで!!」
一息に言い終え、彼女は泣き出しそうな表情でオレを見つめた。
確かにオレはジブリ作品がわりと好きである。ソーシャルメディアにもたびたび、それがうかがえるような記事を投稿したことがあった。
彼女との会話でジブリの話題を持ち出したことは一度もなかったが、彼女はオレのそんなソーシャルメディアでの言動をチェックし、把握していたのだろう。
でも・・・そんなことだったのか。
オレは爆笑した。
何を言われても、と強く覚悟を決めていた心が一気に緩み、笑いが止まらなくなった。彼女の表情が不機嫌になるまで笑いつづけた。
「そんなつまんないことで、お前のことキライになったりしないよ 笑」
「全く同じ考えの人間なんているわけないし、こうして一緒にいたって、何から何まで同じってわけにはいかないじゃん。
人との違いなんてそんなに気にしないで、もっと自分の思いをまっすぐ伝えてもいいんじゃないのか?
そのほうがお前の魅力ってのが人に伝わりやすいと思うからさ」
彼女は人のために自分を殺して生きる人生から、自分のやりたいことをやりながら生きる人生にシフトしようと、あるとき決意し、力強く生きていた。
ただ、自分のやりたくてやっていることが時に人の心を不快にし、批判され、傷つけることもあった。
力強く生きる決意が、揺らぐこともあったのだろう。
「少なくともオレには、そんな気をつかわないでなんでも言ってくれよな」
彼女はホッとして表情を緩め、追加で注文した冷や酒をすすった。
テレビの画面に目をやると、サツキが夕闇の濃くなった森のトンネルを這って、トトロのもとに走るシーンが流れていた。
「でもわたし、魔女宅はちょっと好きだよ」
オレに対するフォローのつもりか、彼女はそう追加した。
それはジブリの好きなオレの、
どちらかというとあまり好きではない作品だった。
時間は流れ、ヒステリックに笑うおっさん3人組はいつの間にか解散、テレビ画面ではメイが走ってお婆ちゃんの胸に飛び込んでハッピーエンドを迎えていた。
そうして今日も、新橋の夜は深くなっていくのだった。
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