「罪の声」感想。

※このページは作品のネタバレを多分に含みます。まだ作品を観られていない方は、観てから来てください。観てよ。※

「記者の仕事は素因数分解をすることだ(うろ覚え)」

世の中の事象には形がない。形のないものから何かを見出そうとすることは、ひとつひとつを詳らかにすることからはじまる。
たとえば、山に溶け込んだ岩でも、顕微鏡で覗けば結晶の状態から、その岩がどのようにしてできたか、生い立ちがわかるらしい。NHKで観た。

この作品の演者の感想のうち、「記者の仕事」という立場のものが多かった気がする。なにを「正しさ」の軸として表現をしていくのか。そして、その表現を記す意義があるのか。こうしたことを常に考えている人たちだからこその視点なのではないだろうか。

35年前の劇場型犯罪で、被害者がいなかったとされる事件の過去を掘り起こすことに意義があるのか。 
私なら、きっと「無い」と言う。それは一人の人間としてそう思いたいだけかもしれない。だって見ないままだったら、2019は私にとって穏やかだ。でも、意義があるかないかを問うている時点で、もうすでに意義が「ある」ことが始まってしまったのかもしれない。
阿久津が東京の社会部に疲弊して大阪でカッスカスの文化欄を書いていたのに、この事件の特別班に選ばれた時点で阿久津自身の中で意義というものがそもそも発生していたのではないだろうか。
意義って何だろう。使命感とかとは違う。そうすることに意味があること、だろうか。それが「自分」にとって意味があることなのか、「社会」にとってなのか、「誰か」にとってなのか、はたまた「金」かもしれない。

俊也が女の子の声「生島望」の友人に出会って、事件の謎を追う意義を見つけてしまったシーン。
何も知らないまま、35年間生きていた俊也が素因数分解を始めて、色々を知ることになる。
もしかしたら、この姉弟の人生は俊也が負うべきものだったかもしれない。
幸せに生きられて来た事を喜ぶべきか、自分だけが幸せに生きられて恨むべきか。その罪は観ている私が背負うものだったのかもしれない。
望の友人「俊也が幸せで良かった」という言葉に苦悶する表情がすごく長く感じた。
俊也だってごく普通に生きてきただけだった。こんな事件と関わっているはずがなかった。どうせこんな時期にこの映画を見ている余裕のある人は、ほぼごく普通に生きてきた人だと思う。わたしも概ねそうだ。
でも、スーパーのレジに並んでいる得体の知れないおじさんとか、コンビニの駐車場で泊っているボロボロの妙齢の女性とか、どう考えてもありえないファッションをしているお兄さんとか、そういうことは見ないふり。そうして頑張って生きてかないと自分が死んじゃいそうになったりする。かといって見ないふりをする残酷さを、自分が持ち合わせていたことにもまた苦しくなる。
こういう事を書く自分もまた、知りたくなかった。

阿久津と俊也の調査が並行して進んでいくが、ようやく二人が出会う。最初は阿久津のことを拒絶していた俊也も、阿久津がやみくもに自身を傷つけに来た人物でないことを伺い、協力するようになる。一方阿久津は、エンタメとして俊也を消費する事になるのではないかという葛藤を抱く。しかし仕事はせざるを得ない。そして、工場跡地について調べるシーンになる。

最初はこの事件に阿久津とかかわっていくことに懐疑的であった俊也が、笑顔で情報を引き出してきたのだ。用品店(何屋さんか忘れた)のおじさんから、スーツの割引と引き換えに。
その純粋な笑顔が、怖かった。俊也にはそうなってほしくなかったと思ってしまった。目的と手段を入れ替えてでも、誰かと駆け引きをする快楽。阿久津はそれを繰り返し自身が崩壊していく恐ろしさを知っている。対して、高級テーラーの職人俊也はそれが怖いことを知らない。

「被害者の家族に対して悲しい顔をしたまま、あと一つ聞き出せばと考えている自分がいた」

わかる、わかるよ。なんだか、そういうことが大人になってからたくさんあった気がする。
そうした駆け引きをしていると、夜中に、自分がものすごく薄っぺらに思えてくる。退勤して、深夜のコンビニで唐揚げと酒を買って、家で飲んで寝て起きてシャワー浴びてパンかじって出勤しての繰り返しみたいな。やさぐれ半分、使命感と、ドーパミンで半分。


「阿久津さんのこと好きですよ」

阿久津みたいな人は普通、仕事中は絶対に自分の弱みを言わない。美学じゃなくて、怖いから。もしかしたら俊也を傷つけるかもしれないのに、弱みを見せるのは、記者にとって殺される覚悟のようなものがあるはず。それでも、俊也に自身を打ち明るところに阿久津の人間味を感じた。私も、阿久津のことが好きだ。

ちょっと話が戻るが、ここのシーンの情景がめちゃくちゃ美しかった。
夕暮れの川辺(海?)、背景に大きな橋を映し、中年男性二人が缶コーヒーを飲みながら、自分のしがない人生を語るなんて美しいにも程がある。みんな大好きだと思う。
勿論お分かりだと思うけれど、ちょっと好きに語らせてほしい。

ここは暗喩が盛りだくさんの情景。

夕暮れは、人生のターニングポイントを過ぎていること。
大きな川は、自分が時代とか社会とか大きなものに流されてきてここにいること。
缶コーヒーは、不味いながらも甘んじて飲み下していること。
映像っていいなあと思ったのです。言葉でなくても伝わる文化。余白を受け手に委ねる勇気。そして余白の分を、別の情報で伝えようとする制作の姿勢。伝わらないことを恐れていないし、それでいながら面白さがそこにあるというのが素晴らしいです。

そして、ドローンの俯瞰の画で、二人の声が遠くなっていく演出。すごく美しかった。多分私が演出だったら地面スレスレの煽りで二人の足音をいれながら会話の中で2つの靴が遠ざかる様を切り取るだろう。安っぽいね。これを空から撮ったのはすごい。なんでそうしたんだろうか。

俊也が「生島総一郎」に電話を掛けたシーン。総一郎は自死に至ろうとしていた。「あー、よかった、間に合った」と思った。これはただの私の感想だからこういう表現も許してほしい。野木先生LOVE。
総一郎は、35年間姉が自分のせいで死んだ罪悪感と、母を置いていった罪悪感を抱き、色んなものを恨み、疲れていたんだろう。目が見えずらくなっても保険証が無いと言っていた。
身元を提示できないから住むところもままならなければ、定職にさえつけない。私の知人に、そうした人間がいたが(こいつは自業自得)身元が提示できないまま生活する事は非常にやっかいだった。そんなこと信じられない、と思ってしまいがちだが、社会福祉の網をすり抜けてしまう人は俊也が思うよりも沢山いる。そうした人を掬い直すこともまた難しい。
もし望があの日「ギンガ」に行けて青木組から逃げ切っても、望が思い描く人生には絶対にならなかったはずだ。そんなことは観衆全員が心のうちで思っていたけれど、それを覆してくれるのではないかという望のきらめきもまた美しかった、そして大人から見れば悲しい部分でもある。

総一郎が俊也に対して「曽根さんはどんな人生だったんですか」と聞いた。この時、総一郎はどんな答えを期待していたんだろうか。
俊也は言えないよね。私だったら嘘つくかも。ついてどうするんだ。どうするんだろう。
1人の殺された子ども
1人の地に這うような人生を送り、死ぬ寸前だった子ども
1人の35年間何も知らず普通に生きた子ども

でも、ここで俊也が答えた返事の描写がなかったということは、俊也が今までの過去をきちんと話したのだと思う。メタ的考え方かもしれないけれど、答えなかったら「いえ、僕は言うほどの人生では……」という描写が入る。あと、阿久津が自身の過去を俊也に打ち明けた場面のあと、総一郎の独白のあとである。独白が繰り返されているのではないか。まあでもきっとそんなことはどうでもいいんだと思う。どうでもいいというか、本質からはずれている。ここをズバッと切り取る演出もやはり手腕がすごい。

総一郎と別れ、望が無事かどうか確かめるという意義を持ってい調査してきた俊也。ためらいながらもここまで来たのに、その意義が潰えてしまった。対して、ここでいよいよ阿久津は、この事件を追う意義を確信する。
「悪人を引きずり出しましょう(うろ覚え)」
意義ってなんだろうか。そういうものは幾重にも重なって確かになる。口にするとなんだかすごく安っぽく筋が通ってしまうので言わない。素因数分解しない塊のままの方が正しいこともある。美しく編み込まれた高級セーターだって素因数分解したら何処の馬の骨か分からないアルパカのもふもふになるし。

「fossil」
阿久津がイギリスに戻り教授へ「日本人を知らないか」と聞く。
何かを訴えようと左翼に転じて牙をむいても、悪意には悪意でしか帰ってこなかった。ここで達雄をfossilと捉えるのは女性の優しさだと思う。
あの女性の中では達夫が化石として埋まっていても、2019年にはすでに土に溶けてしまっていた。1945も9.11も3.11も2020もいつしか化石にすらならない世の中になると思う。化石というのは、掘り起こされて初めて化石だといえる。あの女性は、達夫のことを時たま掘り起こしているから化石なのだ。

「俊也さんは『あなたのようにはならない』と言っていました」「流石、光雄の子どもだな」

警察、報道、企業に人生を狂わされた親の子ども。
俊也の母は息子が声の事を知らないように墓まで持っていくつもりだった。病棟で「早く帰りたい」なんて演技をしてまで続けていた。
「どうしてお母さんは、僕に声の罪を着せたんだ」
どうしてか、と問われれば勿論答えはひとつで「警察に一矢を報いたかったから」だ。でもそんなことは俊也には関係なくて、答えても答えにはならない。1人の人間と、母親の像は乖離していた。母親とはこんなに苦しいものなのか。
俊也は、冷たくなった母を前にしてその影に1人の人間としての姿を垣間見ながらも、息子として頭を撫でた。
「流石、光雄の子だ」光雄は不遇な父のことも、学生運動に傾倒した弟とも違ってブリティッシュテーラーとしての道を進んでいた。

「なんで俊也はテーラーなんだ?」と上映前から思っていたが、光雄さんらしい。
スーツというのは光雄さんが産まれたであろう1940年代後半から現役だったであろう1990年代までの間でものすごく流行があちこちに行ったファッションだった。そして、ブリティッシュが流行っていたのは1950年代。まだ光雄がテーラーになるよりも前の話。店を構えた時点でアメリカからのIBスタイルかパリモードが流行っていた時だった。(すっごい前に調べて今急に思い出したので間違ってたらごめんなさい)
こういう中でブリティッシュを続けてきた光雄。母の人間としての姿をしりながらもそれでも母だと願い髪を撫でる俊也。
そして、その手で娘を撫でた。
「達夫さんのようにはならない」

そして、総一郎が俊也のスーツに身を包んで会見に望んだ。35年を明けて母を探すために罪の声は私だと世に出た。お母さんに会えて、望の罪の声を母に聞かせ泣き合う姿はパンドラの箱を開けた後にようやく聴こえた鈴の音のようだった。
パンドラの箱なんていう使い古されてもはやなんか安い言葉を使うなんて、とおもわれちゃうかもしれない。
でも、TEDのパンドラの箱のアニメーション動画がこの話の何か大事な部分に触れている気がしたのでリンクを貼りますよ。3分くらいなので見てね。
https://www.ted.com/talks/iseult_gillespie_the_myth_of_pandora_s_box?utm_campaign=tedspread&utm_medium=referral&utm_source=tedcomshare

そしてエンディングのUruさんの歌声。素晴らしい。この曲は絶対にこの映画の最後映画館で聞いて良かった。
本当に小さい映画館で見たのですが、最後まで誰も席を立ちませんでした。この曲を最後まで聴かなければこの映画が終わりじゃないというメッセージが伝わるようだった。

ストーリーを一貫してどう思ったかの感想はここでは控えます。


ここからは物語の感想ではないのですが、好きだったところです。

* 音がとっても良かった。スーパーに調べに行くにしては不穏すぎる音楽。親子で動物園に行くとは思えない不穏すぎる音楽。人をはねた音、首をくくろうとする横で電話の声が遠ざかる音、ハサミで布を経つ音、カセットテープとさらに録音した音でノイズのはいり方が違うところ。

* 達夫の古本屋のドアを開けるシーンに合わせて俊也の母がテーラー曽根のドアを開ける演出。

* 橋。橋が沢山出てきますね。私は橋が好きなんです。橋は素晴らしいな。

* 図書館。京都府立図書館ですかね。私は図書館が好きなんです。図書館は素晴らしいな。
このご時世にきちんと図書館で調べようとする俊也。いいよ。

* 家に帰ってオーディオマニアの父にパンフを見られたのですが「ラジオ、ナショナルとソニーの2つ写ってない?グッズもキーホルダーもガジェットポーチでそれぞれ違う」との事でした。
こええよ。
曽根家と生島家でそれぞれ違うのでしょうね。パンフ表紙のラジオは曽根家のものでは無いそうですよ。

* 橋本じゅんさんが最高に可愛かった。全部喋っちゃう。

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