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オープンにするのは良いことか

去年公開されたらしいLGBTQ+に関するページに書いてあることがどうにも納得いかないので、思うところを書き出してみようと思います。

その前に。
性的指向にせよ嗜好にせよ、社会のルールの範疇で個々の自由だし、逸脱すれば誰であれ罰を受けるのが当然だという考えです。
また、社会のルールというのは時代による変わるものなので、ある時点で合法だったものがある時点からは違法になる(あるいはその逆)ということも起こりえます。なので、「その時のルールがどうだったか」という視点が欠かせないとも思っています。

例えば同性愛の人に好意を持たれるということがあったとして、私自身はそうした指向がないので、友情以上の関わりを望みませんし、それを差別と言われても困ります。恋愛的な好意を持てないのに、差別扱いされるから「仕方なく」「相手に合わせて」交際する、というのは不誠実だと考えます。無理にでも好意を持て、という押し付けがあった場合、私の人権はどうなるんだという話になります。

さて、このnoteのきっかけとなったページはこちら。

児童生徒として在校しているはずのLGBTQ+の存在について知り、このレインボーフラッグを職員室や廊下、保健室などに掲示して、「性的マイノリティの子どもたちにも、安心して学校で過ごしてほしい」というメッセージを示してみる

上記ページより

引っかかったのはこの部分でした。
在籍しているはずの該当生徒の存在について知る…どうやって?アンケートでも取るんですか?あなたはLGBTQ+に該当しますかって?
それは、カミングアウトの強制になりませんか?

方法はさておき、存在を知ることが出来たとします。無記名であったとしても、そのクラス内、あるいは学年、学校において該当生徒がいることが「学校中に」知れ渡ることになりますね。個人の特定が出来ないまでも、アウティングと取られる可能性があるのではないかと思います。
わざわざ「学校は、先生たちは、あなた方性的マイノリティの理解者であり味方ですよ!」とアピールする以上、生徒たちは、あるいは保護者や外部からの来客は「この学校にそうした児童生徒がいる」と思いますし、「一体誰だ?」「あの人じゃないか?前にこういったことが…」なんて邪推と憶測が蔓延るのが容易に想像できます。
もちろん、そうしたことが起こらないように宜しく指導するのが大人としての務めですが、本当にそんなことが出来るなら、世の中からいじめなどという悪行はなくなってるはずなんですよね。
でも、大人の世界でさえ起きているわけですから。現実問題として無理。

先生方の興味関心が性自認に偏重してしまうことも多いようですが、性的指向と性自認の多様性についてバランス良くその情報を獲得して、日々の児童生徒への指導に反映していくことが求められます。

上記ページより

これについては、まぁそうですよねと。
色んな人がいます、千差万別です。性自認や性的指向に限った話ではなく
並列で語ると切り取りで憤慨する人がいるかもしれませんが、例えば発達障害の傾向がある子がいたり、家庭環境に問題を抱えている子がいたり、成績不振で悩んでいる子がいたり、個々が抱える問題も、その対策やケアの方法も違うわけです。性自認・性的指向ばかりを優先することは出来ません。
学校で対応できることは、今の体制だとかなり手前の段階で限界が来ます。

ちょっとね。世間様が学校や教師に期待しすぎてると思うんですよ。
指導計画を立て、授業をして、指導をして、行事の準備をして、部活顧問もやって、教職員間で分担した係の仕事をやって、教育委員会や組合関係の活動もして、定期的に研修を受けて、更には家庭があって…とにかく忙しい。
そして、何故か無駄に完璧を求められる。
少子化と言われる昨今で、何故教員不足が起きるのか。
なり手がいない。辞めていく。やることや制約が昔に比べて格段に増えている。
例えば私が小学生のころは、今で言うところの体罰が当たり前にありました。宿題を忘れたら先生にお尻を叩かれる、先生が大きな声で怒鳴る。そういえば教室で煙草を吸ってる先生もいました(これは結構特殊な例ですけど)。
今はそれが出来ないから、他の指導方法が採用されてるわけですが、手間や時間のかかる形になっているのではないかと思います。
みんなの前で𠮟るということが出来なくなりましたから、一人一人それとなく呼び出して話をじっくり聞く、ということが求められてます。実践すると時間がかかります。通常業務に加えてそれをやれ、常にやれ、完璧にやれ。
…無理ゲーにもほどがありませんか?

話が逸れた。
引っかかった「児童生徒として在校しているはずのLGBTQ+の存在について知り」の部分で連想したのは、とある有名なLGBT活動家でゲイ当事者という人のお話でした。前の職場の人権研修か何かの講師として会社が呼んで、1時間ちょっと話をしてもらったという感じです。
その中で、「カミングアウトしやすい社会をつくる」「アライになってください」といった言葉がありました。これに違和感バリバリ。
カミングアウトするのが良いことですか?それが絶対正義ですか?
わざわざ人に言いたくない、言わなくても特に困ってない当事者の人もいますよね。
性的指向や性自認に関わらず、大抵の人には他人に言いたくないことの一つや二つあると思うんですよ。少なくとも私にはあります。
「カミングアウトされたくない」という考えの人もいます。人の秘密を知ってしまった、墓場まで持って行かなければアウティングしたとされて叩かれる、そんな面倒なことは御免だ…などと、昨今のカミングアウトがらみのトラブルを見聞きして考える人がいてもおかしくないです。

前述の研修で、某大学生のアウティング事件について触れられましたが、「アウティングされたことが原因で自殺した」という紹介の仕方でした。
実際はもっと複雑です。
ゲイ当事者学生が、そうした指向を持たない学生に告白
→断られたにも関わらず、友達以上のかかわりを求め続ける
→告白された側が追い詰められて仲間内で暴露
→告白した側も追い詰められて転落死
ざっくりこういう経緯のはずですが、告白した側のしつこい態度について全く言及しない紹介の仕方がね…活動家的には不都合なんだろうなぁと思ったものです。

人に言いづらいことを打ち明けてもらう。そうした信頼をしてもらっている。
それはありがたいことではありますが、一方で負担でもあります。
どうすればいい?と言ったことを他の人に相談しづらいからです。
打ち明けてきた本人が何を求めているかにもよります。
ただ聞いてほしかった、知っていてほしかった、というだけなら「そうか」で終了ですが、打ち明け話というのは多くの場合、続きがあるものです。
その続きに対してどうすれば良いかを一人で悩まなければいけない。
その負担を相手に強いる権利って、どこに・誰にあるんですかね。
相手の負担になる可能性について、あるいは負担に耐え切れずに秘密が漏れる可能性があることを、打ち明ける側は覚悟してますか?
カミングアウトを勧める人たちは、人の口に戸が立てられることを前提としていませんか?
マイノリティが頼ってきたんだから全面的に支援しろと思っていませんか?
カミングアウトされた側の苦労や人権を無視していませんか?
※申し訳ないけれど、これだけ市民権を得て政治的な力を持っているんですから、性的マイノリティは社会的弱者ではないという考えです。

私個人としては「わざわざカミングアウトしなくても支障なく暮らせる社会」が理想です。
そもそも人の性的指向に興味がないです。知ったところで自分には関係ないし、その人との関係性に影響が出るものでもないから(アウティング事件みたいなことがあれば別ですけど)。
実際、これまでの状態で特に困らないという当事者がいることも知っています。
そうした主張する当事者に対して批判や中傷の言葉を投げかける人たちがいるのも知っています。
アウティング禁止という流れもあるようですが、一方的に黙っていることを強要された人たちの負担はどうなるんです?
カミングアウトって、一方的なんですよ。
言った方は一方的にスッキリするでしょうが、言われた方は一方的に守秘義務を負わされるわけです。
公平さの欠片もないですね。
相手を思うからこそ敢えて言わずにいる。そういう思いやりも大事なんじゃないですかね。

特定の人にだけではなく、広く世間に向けてオープンにするならアウティングがどうという問題は起きにくいでしょうけど、個人にそこまでする必要があるかって言ったら多分ない。
わざわざ言わなくてもいいこと、言ったからってどうなるものでもないことというのはありますよね。
何か目的があるからオープンにするわけで、本人や言われた側、周囲にとってそれが必ず良いことかというと、そうでもなさそうだよ?というのが今のところの感想です。
カミングアウトが正義みたいな考え方には賛同できないし、それをごり押ししてくる人は当事者・アライ・活動家によらず胡散臭いなぁ…と感じます。

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