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わたしとぼくと 可愛いものを描きたいのです

可愛いものが好きだ。けれど、可愛いものが好きな自分は苦手だ。可愛いものをつくる自分は、もっと苦手だ。

私の抱えている、ほんとうにクソなルール。クソにも失礼なくらい、役に立たない不要な「べき」。

「可愛いひとしか、可愛いものをすきになってはいけない。または、可愛いものをつくるひとは可愛くあるべきだ。」


このクソルールの存在に気づいたのは、instagram に投稿したこの絵がきっかけ。


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もう、女の子〜って感じで、投稿するのも恥ずかしかったし、投稿したあとも恥ずかしい。心がざわざわするから、消してゆっくり呼吸したいくらい。

お花単体とか、可愛い店とかはまだ大丈夫なのだけど、似顔絵じゃない可愛い女の子を描くのはかなり抵抗がある…。(モデルはPinterestで見つけた美しい女性の写真。髪の毛と服だけ変えた。)

ただ、想像で創作する絵には、可愛い女の子が登場する。なりたい私なのかもしれない。いや、なりたい私なのである。

私のすきなものたち。

ちいさなもの。

狭い空間。

透明なもの。

木の実。


けれども私は、世間一般のいう、「かわいい女子」の定義には当てはまらない。

小さくないし、細くもない。

色黒だし、どっしりしている。(あまり動じない)

吹けばふわふわとどこかに行ってしまうような、そういう儚げな雰囲気は持ち合わせていない。(むしろ自分のエンジンでびゅーんと飛んでいくロケットといいますか、サイといいますか。可愛くない)

存在感の塊。(しばしばうるさい)

ほっぺたは赤くないし、体調がよくても顔は土気色である。(悪いとみどり。)

だから、noteを書いているときも、「わたし」より「ぼく」あるいは「わたくし(ちょっと古い感じね)」のほうがしっくりくる。そんなわけで、途中から僕になってますが、生物学的には変化はありません。


そんなクソルールは気にしなきゃいいんですけど、自分が可愛いものを描いてると、もう体が拒否反応を起こすんですよね。ひゃああ!って。(毛虫に遭遇した時のアレに近い)匿名なら、安心して描けるんだけれど。親が買い与える可愛い服とかも、意味不明に無理だった。なぜ色黒にフリフリ白靴下を履かせた・・・!(今思うと、色黒とフリフリ白靴下の組み合わせを、どこで好ましくない、と学習したのかは不明。なんせ3~4歳のときからなんか違和感があった。)

どうしたら、可愛いものが好きな自分を、可愛いものを描かずにはおれない自分を、受け入れられるのだろう?

それは、たぶん、慣れなんでしょう。このぞわぞわを感じつつも、コンスタントに刺激を与え続ければ、いつかは慣れるはず。だから、いま、やってみている。


「どんなひとも可愛いものを好きになったっていいじゃない。可愛いものはどんなひとがつくっても可愛い。」

そう、そんなの当たり前。熊みたいな髭の男性が、可憐で儚げな蓮の花を描いていたって、それもよい。(先生はあんな繊細な絵を描かれるのですね、とか言ってごめんなさい、日本画のT先生)


そう言い聞かせながら。


ただ、やっぱり、まだまだ、うひゃ~!こそばゆい!ってなりますが。



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