死にゆくことを見守ること

若く美しい人の命が失われるのはとても切ない。けれど、その人の命の火は、病を患ってもより美しく、その限りを尽くして燃えたと思う。

病気になると病のことや、病にかかった自分のことばかりを考えてしまうと思うし、それは当たり前で自然の事だと思う。ましてやがんで、厳しい局面だと宣告を受けているならなおさら。

でも、彼女はいつも彼女のブログを読む向こう側の人のことを考え、気遣っていたと思う。それは誰でもできることではない。決して病に負けなかった。
そして、それを支え続けて、すべてを受け入れたパートナーもすごいと思う。

……………

ドラマ版「世界の中心で愛を叫ぶ」のクライマックスで、白血病にかかり余命わずかな女子高生・亜紀を、主人公の高校生・朔太郎がオーストラリアに連れて行こうとし、亜紀が病院を抜け出すシーンがある(「一番青い空がみてみたい」という亜紀の希望があってのオーストラリアなのだけど)。

その途中、ひとりで駅まで行く亜紀を朔太郎が追いかけ、叱る。「なんかあったらどうすんだよ。」と。
亜紀はこれ以上朔太郎に迷惑をかけられないと話す。病状からいって病院を抜け出すなんてもうすでに自殺行為だから。亜紀自身もそれはよくわかっていて「私、死んだらどうするの?」と聞く。
それに対して朔太郎は「かついで戻ってくるよ。そのままでいいんだよ。死んでもいいよ。」と言うのだ。(結局、空港で力尽き亜紀は倒れてしまい、病院に搬送される。)

「死んでもいいよ」。
死ぬことを許せるほどのやさしさ、全てを覚悟で向かいあうこと。余計なことだけれども、直感的にこのドラマの演出をした人はきっとなにかそんな経験があったのかも知れないと思ったら、やはりそのようだった。

あらがえないことが起きたとき、愛する人が死ぬことも受け入れ、見守ることも愛。

「セカチュー」はフィクションだけど、そのことを教えてくれた。

そして今日この世で愛を全うしたふたりを見て、そんなことを思い出した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?