キングオブコントと優しくないネタと男性ブランコと飽和

遅ればせながらキングオブコントを見ました。

面白かったですね。評判も良かったようです。

一方、ツイッターやらネットなんかで流れてくる感想には違和感があるものが多かったです。

なので、思ったことを書いておこうかなと思います。

「優しいネタが多い」とか、そういう感想が多い。なんなら「感動した」という感想さえ見られました。

まじか。そうなのか。

「空気階段、ザ・マミィ、男性ブランコ「キングオブコント」勝ち残った3組の「意外な共通点」」現代ビジネス2021年10月3日

この記事にこんな記述がある。

今大会、決勝のファーストステージを勝ち抜き、ファイナルステージに進んだ3組(空気階段、ザ・マミィ、男性ブランコ)のネタの内容には、特筆すべき共通点があるように見えました。
それは、「異質な他者と、豊かな関係を築く」という内容を含む点です。

そうなのかな~。

●「優しいネタ」?「感動的」?

なお、あらかじめ書いておきますが、これから書く内容は決して、お笑いとしてのコント内容を貶したいものではありません。

後述しますが、「優しいネタが多い」「感動した」という感想を批難したいわけでもありません。

個人的な違和感を表明しておこうというだけのものです。

●優しいネタが多いのではなくスカシが多い

おそらく、優しいネタを作ろうと思って作った組はいないと思います。面白いものを作ろうとしたらああなっただけなんだと思います。

今回のキングオブコントの特徴はむしろ、「スカシ」の手法の多さだったと思います。

本来、ぼけたりつっこんだりするはずのコント大会で、一体何をやっているんだ」というパターンの笑いの多さが、結果的に「優しいネタ」の多さに見えたのではないか。

●例えば蛙亭の優しくなさ

一例ですが、蛙亭のネタについて書いてみます。

上掲した記事でも蛙亭のネタも異質な他者と豊かな関係性を築いているネタの一つと書かれていましたし、優しいネタだとみなされているんだと思いますので。

蛙亭の面白さは疑いようがありませんし僕も大好きですが、個人的には全然優しくないと思います。

「異質なヤツ」側が一方的に奉仕し、その「有用性」を持って、ノーマルな人間(イワクラさん演じる研究員)に受け入れてもらえるお話は「異質な他者との豊かな関係性の物語」では全くありません。

異質な他者が上から目線で許してもらっているだけです。

(なお、異質さを「有用性」に対置する仕組みは、日本の社長のバッティングセンターのネタの落ちでも使われています)

「普通の奴」を自認しているようなタイプの人には気持ちがよく感動的な筋書きなのかもですが、少なくとも「豊かな関係性の物語」というには話が浅すぎます。

仮にこの脚本がドラマや映画だとしたら「やさしさ」や「関係性」の話としてはおもんなさすぎる。そらそうです。そもそも豊かな関係性の話を作っているわけではない。なんならこの浅さこそ面白い。

●母性

落ち台詞は「これが母性か」でした。

「母性」というワードはめちゃくちゃ面白い。コントのオチとしては最高です。ですが、関係性の物語なのであれば、母親役の側が与える側に立つストーリーになるほうが一般的なように思います。(母性の定義が絡むと話はややこしいのですが、あくまで一般的には)。

母性のストーリーとしても浅い。

演出とストーリーのズレ

ただし、さすがに周到な作りになっていて、コントの中の事実としては筋が通るように作られている。研究員が母性に目覚めるきっかけを示す「ちょっと可愛い」というセリフは、ホムンクルスが発する「このあたたかい気持ちは?」という言葉(無垢=無知=弱さ)によって引き出されます。

研究対象ルスが実は強かったという有用性は、研究員に脱走の決意を促しただけで、母性の芽生えには関係がありません。

じゃあ問題ないんじゃないか、このネタは優しいネタなんじゃないかと思われるかもしれない。

問題は、このコントは、コントとしての演出と、実際にコント内部で起きている事件にずれがあることでしょう。

研究員は、中野さん演じるホムンクルスを気持ちが悪いとも滑稽だともたぶん、あんまり思っていない。

対して、観客は、ぬるぬるの30代小太り男性芸人だと認識している。

(手を拭くシーンがあるので、あの研究者も気持ち悪いとは感じているとは思うが、ぬるぬるの30代男性(芸人としての中野さん)がぬるぬるなのと、研究対象がぬるぬるなのとではやっぱり意味が違う)

そのため、常に、登場人物である研究員と観客である私たちとの間で「感動あるある」の見え方がズレるようにできている。

つまり、お客さんが笑っているということは、あのネタの中野さんをキモいと思っているということ。そして蛙亭はそれを狙っている。それって「優しい」ですか? 僕は違うと思います。

このネタは優しいネタではなく、「お笑いをやる場所で何を感動的なことをしてんねん」というスカシと、「ストーリーは”感動ものあるある”なのに演者がショボい」というギャップを主眼としたコントです。

……なお、例えば「母性に目覚めた研究員がホムンクルスを守る」「研究員がホムンクルスの、人造ゆえの存在理由の欠落を埋めようとする」「人間を圧倒する能力を誇るホムンクルスが、研究員を含む人間一般の弱さを理解する」みたいな展開(例が陳腐で申し訳ない)なら「異質な他者が豊かな関係性を築くネタ」という見え方もしたかもしれない。

話が感動的であればあるほど、「お笑いをやる場所で何を感動的なことをしてんねん」というスカシや、「ストーリーは感動ものあるあるなのに演者がショボい」というギャップは強まったはずなので、おそらくそういう方向でもコントは作れたんでしょうね。

●ザ・マミィ一本目の優しくなさ

続いてザ・マミィ。

ザ・マミィの一本目なんて、なんなら一番優しくない。

「ああいう人」に自ら、”自我がない”、”信用してはいけない”と言わせるのは優しくないと思うし、道を尋ねる青年は、純朴ゆえに「ああいう人」に道を尋ねていたように見えるが、最終的には対象を観察し、審査していた。優しいとはいえない。むしろすっごい悪意。

この悪意の鋭さこそあのコントの華だろうと思う。

僕はアナ雪の歌のレリゴーがあまり好きではない。誰もかれも、他人にたいして「ありのままの姿みせるのよ」と思っていない。「私の審査に合格できる姿を見せるのよ」と思っている。

「普通側のやつにとって気持ちがいいネタ」なんだと思います。

実際には異質な他者を排他しながら「気持ちいいよね~」と言い合うこともまた気持ちいいので、こういう言葉がはびこるんだと思います。

人間のこういうイヤなところを描いた素晴らしいコントだと思う。あのネタは面白いし、演技・パフォーマンスも素晴らしいが、優しいネタではない。

●「優しいネタが多い」という感想について

もちろん、優しいネタではないことは決して、ザ・マミィのネタの価値を貶めるものではないと思います。

このコントは面白いというだけで価値がありますし、さらにいえば、このコントをみた人の一部が、翌日に「ああいう人」を見て「話しかけてたらどうなるのかな」「意外と自我が残ってるタイプなのかもな」みたいに思ったりする可能性は十分にあって、従来の「ああいう人」への見方が少しでも変わるとすれば、そういう意味では確かに、結果的に「優しいネタ」といえるのかも知れません。

(もちろん、逆に「あいつは自我が残ってない」などと馬鹿にするための材料に使う心無い人もいるかもしれません。
 でもそういうやつはザ・マミィのネタを見てなくても馬鹿にすると思う)

「優しいネタが多い」という感想は、個人的には同意こそしませんが、この感想の多さこそが世の中をどんどん優しくしていってくれるように思います。

もっと世の中がハートフルになるといいですね。

本当の意味で優しいかどうかはともかく、「優しいネタ」と評されるネタの割合は増えているような気もします。
今後、世の中がもっとハートフルになっていくのだとすれば、今回のキングオブコントはその過渡期としてのお笑いを象徴したのかもしれません。

そういう意味では、今回の「キングオブコントは優しいネタが多かった」という感想が間違っているとは思いません。

●優しいネタの時代?

『時代の価値観が変わってお笑いの価値観も変わった』みたいなことを感想もみかけましたが、個人的には、日本人全体の『誰かを馬鹿にして笑いたい欲求』が減少しているとはあんまり感じていません。

(これは僕の人生がこの人生だからなのかもしれない。僕の知らないところでは減っているのかも)

もちろんお笑いの価値観もある程度は変わっているでしょうが、欲求の量が減っていない以上、『時代とともに変わった』のは『馬鹿にする対象』なんじゃないかというのが僕の直感です。

ではなぜ今回のキングオブコントで「優しいネタが多い」と評されるようなネタが多かったのか。

お笑いが優しくなったのではなく、「スカシ」でしか意外性を作りにくくなっているということではないか? という懸念・危機感があります。
お笑いがある種の隘路にハマりつつあるのではないか。

「スカシ」とは、例えば、「本来突っ込むべきところでつっこまない」というような笑いの取り方をさします。
ぺこぱの漫才がつっこまないのは松陰寺さんが優しいからではなく、『お客さんが、本来はどうツッコむかを知っていている状態、予想している状態』で、その予想を裏切っているからです。

(いや、松陰寺さんは実際優しいと思いますけどね。昔、一度だけ自分の企画ライブに出ていただいたときもとても良い人でしたし)

キングオブコントが2021が優しいネタが多いと一般に評される理由は、時代の価値観のせいというより、『方法論が周知共有されすぎて飽和している』ので、『スカシ』の有効性が強まってしまったということが原因だと、個人的には思います。

とはいえ、危機感を抱く一方で、逆にいえば、こういうときにこそ、素晴らしい、本当に新しい(例えば本当に優しいネタとかね)お笑いが生まれるのかもしれません。

懸念をいだくと同時に期待もしています。

っていうか僕が理解できてないだけで、もうとっくに生まれているのかもしれませんね。

理解できない笑いを見たときに、馬鹿にするようなオッサンにだけはなりたくないものです。

以下はおまけです。

●個人的に一番面白かったのは男性ブランコ

個人的に一番面白かったのは男性ブランコの一本目でした(もちろん空気階段の優勝には異論も異存もありません)。

男性ブランコのお二人は新人当時に拝見していましたがずっと天才でした。
たくさんの人が好きになったようで、うれしく思います。

一本目は前半と同じことを繰り返すネタでした。

M-1第一回の麒麟のネタを例に出すまでもなく、たくさんのネタでみられる手法だと思います。

こういう手法はたいていの場合、重要な条件が一つだけ異なった状態で後半の繰り返しを行うもんなんだと思いますが、今回の男性ブランコのネタはそうじゃなかった。

「これから、さっきまでと同じように喜びますよ」と予告しておいて予告通りに、まったく同じことを繰り返すのがあんなに面白いとは。

そういう意味では、(ネタが終わったあとに振り返れば)あのネタは「予告」の部分でしかボケていないようなものです。

凄いネタだなあと思いました。

芸人さんというのは尊敬すべき凄い職業だとおもっていますが、何より凄いのは、「これは絶対面白いから見てほしい」と思えることだと思うんです。

もしかしたら、ず~っとず~っとネタを考えてたら、同じようなネタを僕にも思いつけるかもしれない。番組の視聴者にも思いつけるかもしれない。

でも、仮に思いつけたとしても、面白いと確信できる自信がありません。

まして、人前でやってみようとなんて思える気がしない。

ああいうネタを思いつけるのも、面白いと信じられるのも、実際に人前で演じられるのも、それで決勝進出するのも、決勝の舞台でウケるのも、とてもすごいことだと思います。

●「今回はみんな面白かった」という感想

「今回はみんな面白かった」という感想もよく見ました。

たしかに全組ウケていました。

けど、逆に、去年までがそうじゃなかったってほうが不思議なんですよね。
何千組の中から、一回戦~準決勝を勝ち抜いたコンビが面白くないわけがないんです。

全組が面白かったのは別に、今年だけではありません。

僕からすれば毎年の決勝に残っているファイナリストは、例外なく全組信じられないくらい面白いです。

準決勝の環境で大ウケしていることは十分に想像できるものばかりです。

ではなぜ面白くないと評価される組が出てきてしまうのか

以前の記事でお笑いをロックとポップに分けたことがあるんですけど、準決勝以前の劇場という環境や、わざわざライブに足を運ぶお客さんにはロック的なお笑いが向いていて、テレビのスタジオや観覧のお客さんにはポップ的なお笑いのほうがウケやすいっていう部分が齟齬を起こしているんだと思います。

おそらくのこの齟齬の解消自体はけっこう簡単なはずです。

でも、解消するべきかどうかはよくわかりません。

ロックとしての鑑賞にもポップとしての鑑賞にも耐えうる芸人・ネタが優勝する仕組みになっているのはいいことだと思っているので。このままでいいような気もします。

準決勝もスタジオで行って、決勝同様に女性客中心のお客さんを入れて、その環境で審査をするみたいなことをすれば、準決勝と決勝のウケるネタの齟齬は減らせるのかもしれませんけどね。別にやらなくていいと思う。

●方法論の飽和

方法論が飽和していると書きましたが、文字通り、「すでに飽和している」という意味で書いています。

「これから飽和するのではないか」という危機感ではありません。

とっくに飽和しているのにみんなで同じようなことを繰り返しているのではないかという危機感を覚えています。

例えばビジュアル系にとってのある種のスカシであるゴールデンボンバーはビジュアル系が飽和してから出てきましたしね(一方、全盛期ほどではなくても、いまでもビジュアル系はたくさんいて頑張っておられて、ファンもたくさんいます。そうなったらそうなったで、問題ない人にとっては問題ないのでしょう)。

たぶん『魔法少女まどか☆マギカ』みたいな作品も、ある程度『魔法少女モノ』が飽和したからこそ出現した、ある種のスカシなんだと思います。ちゃんと見てないからわからないんですけど。

こういう、「わざと一周まわした」ようなミュージシャンや作品がヒットするというのは、少なくとも「お約束」が完全に周知されている状況を示すのでしょうし、場合によってはある意味でジャンルの一時代が実はとっくに終わっていたことをも示すように思います。

●おわり

もうちょっと書きたいこともあるのですが、もういい加減長いのでいったんここまで。

有料部分には今日食べたパンについて書いてるだけなので買う必要はありません。最近おなかが痛くてバイト休みがちで生活がピンチでかわいそうなので、お金が余っている人がいたらお金ください。余ってない人はご自身のために使ってください。

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