見つけてもらった才能を、育てる。

自分にとって当たり前のようにできることに、「上手じゃん」とか「いいね」とか、そんな言葉をもらえるものを、「才能」だとか「強み」だとか言うのかもしれない。でも、それを素直に受け止めるはすごく勇気がいる。特に、大人になってからは。

色んな世界が見えすぎる現代は、眩しすぎる才能が溢れてて。自分のちっぽけな「才能らしき何か」は、煤けて見える。

磨けば光る? 本当に?

昔から、言葉を紡ぐことは好きだった。小説家になりたいだなんて、そんなことを思ったりするくらいには。

自分の書いた、さらさらと毒にも薬にもならないような文章の、いったい何がいいのか。それが知りたくて、小野美由紀さんが主催する『身体を使って書くクリエイティブライティング講座』に参加した。

「今日は批判禁止です。他人にも、自分にも」

いくつかあった決まり事の中で、よかったものがこれ。書いたものは自分の一部。それを晒すのは、とても、怖い。目の前にいる、顔の見える誰かに、自分の中身を少しとはいえ、晒すのだから。

初対面の人ばかりで、最初の空気さえできてしまえばきっと何でも言える空間になる。だからこそ、恐れのない空間でなければ。

この決まり事のおかげで、とても楽になれた気がする。自分の書いたものの稚拙さとか発表する恥ずかしさとか、そういうものを飲み込んで、「いいとこ探し」をしてもらえる。もちろん、自分も「いいとこ探し」をするのだけれど。

浮かんでくるものを掴まえて、言の葉に変えて紡ぐ。しなければならないもののない空間で、それに没頭できることは、たぶん幸福な時間だったんだろうと思う。

ワークショップで書いたもの、最後に発表したもの。みんな、自分にないものを持っていて。でも、不思議と眩しくはなかった。嫉妬に焦がされることも。「みんな違って、みんないい」なんて言うと陳腐だけれど、各々の才能を美由紀さんが言語化してくれたことて、「私の中にあるもの」を持てていたから、他人の才能に振り回されずに済んだのだろう。とても、優しい空間。

美由紀さんからも他の人からも、色んな言葉をもらった。ずっと、自分の文章なんて無味無臭で温度のないものだと思っていた。「書ける」なんて、「文が破綻していない」程度の認識で。「優しさ」だとか「暖かさ」だとか、そんなものを感じてもらえるなんて、露ほども思っていなかったから、咀嚼するのに少し時間がかかった。

「書き手」の人たちから肯定されることの幸福感をしみじみと感じる。

どこにも行けないと思っていたし、書くことで何かを届けることなんて、自分にはできないと思っていたけど、案外、外に繋がる行為なのかもしれない。書くことで、どこかに行けるのかは、全然わからない。今までみたいに、同じところをぐるぐる回るハメになるのかもしれない。でも、書いてもいいんだって思えたことは、前進で回るにしてもきっと環が大きくなるに違ない。

見つけてもらった「才能らしき何か」が「才能」だと、自信を持って言えるように。

言葉を紡ぐこと。誰かの心に届けること。

続けていこうと思います。



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