成年後見の仕事

 こんにちは、川のほとり司法書士事務所の髙野です。最近、本職による有益なnoteがブームになっていると聞きまして、すぐ流れに乗ろうとするタイプです。

 私が書くとしたら成年後見のことしか書けませんので、書いてみたいと思います。これから後見業務を始めてみようかなという同職の皆様の後押しになったら、嬉しいです。

 最初に結論を申し上げます。
 結論「成年後見の仕事は胸を張れる仕事です」

 もちろん、この簡潔な文には「しっかりやれば」とか「心を込めてやれば」という文言が隠れていることは否めません。それはどのような仕事においても、ある意味当たり前なので、書く必要がないという判断です。手を抜いて胸を張れる仕事などないでしょう。

 また、他の仕事がどうとか、他の仕事と比較してどうということもありません。他の仕事だって素晴らしい仕事はいくらでもあるでしょう。そういう意味では、成年後見の仕事「も」胸を張れる仕事です、といった方がより正確かもしれません。

 では、なぜそう思うのか。

 司法書士登録後から現在に至るまでの6年半、成年後見の仕事を主業務として50人以上に関与し、若手of若手の私が考えるもっとも大きい理由は「支援者がいないケースが多い」ことです。

 この仕事を始める前、私が想像していた典型的なケースは、ご本人がいて、ご家族・ご親族がいて、関係者がいる、というものでした。

 しかし、現実は違います。少なくとも、私の経験上では違います。
 私が思い描いていたケースはむしろ少数で、支援者のいない方が想像以上に多いです。なかには、文字どおり、孤独の方もいらっしゃいます。推定相続人なし、親戚関係交流なしという方です。せめて友人知人がいてくれればいいのですが、そういう方がいないというケースも少なくありません。

 そういうケースのご本人は、お話が好きな印象です。いや、誰かと話がしたいというのが本当のところなのかもしれません。認知症を患い、私のことが認識できず、お会いするたびに自己紹介をするような場合でも「私に会いに来てくれたの?」「私のことを見てくれる人なの?」と少し嬉しそうにお話をしてくださいます。

 そして心を開いてくださると、あとは言葉が堰を切ったように続きます。所々、頓珍漢なお話もありますが、過去の(おそらく正確な)記憶のなかで、故郷の話や思い出話をしてくださいます。その方のお話を聞いて、私は見たことのない花火大会や地方のお祭りを想像し、戦時中の生活やその方の青春時代に想いを馳せます。

 帰り際には「また来てね」と言ってくれますが、次回も自己紹介から始まります。それでも、嬉しそうにお話をしてくれる様子を想像すると、毎回喜んで名刺を差し出しています。ふるえる字で一生懸命書いてくださったお手紙をもらったこともあります。端的に、寂しいんだろうな、と想像します。

 ときには、そのようなご本人が、いわゆるゴミ(本人にとっては必要な物)屋敷の住人のケースということもあります。私の数少ない経験のなかでは、このようなケースは「きっかけ」があります。集め始めたきっかけ、片付けられなくなったきっかけです。

 それは「配偶者の死」です。特に、仲が良かったご夫婦の片方の死です。それまでの幸せが一転し、世界が変わってしまったのでしょう。周囲から変人扱いされ、物が溢れる自宅の中で配偶者への思いを吐露されると、胸が締め付けられます。

 そこにあるソレも、あっちにあるアレも、亡き人に通じる物だったりします。なんかよくわからないけど体が痒くなりながらも、その話をしっかり聞かなくてはという気になります。そして、一番大切な物や、そうでもない物を判別できると、じゃああっちは片付けよう、と話が進みます。
 
 いいように書いていますが、正直なところ、これまでの部分は社会福祉士さんの方がスキルが一枚上だと感じています。おわかりのように、法的な権利・義務の話ではなく、対人としての話だからです。後見人の勉強会や連絡会、複数後見でご一緒させていただいている社会福祉士さんの活動は、身近にある良いお手本です。私が社会福祉の勉強をしなくてはと思った理由もここにあります。

 もちろん、法律専門職後見人として、法知識を活用したケースもありますが、私が関わった多くのケースでは、膨大な法知識を要するということはありませんでした。

 支援者がいないケースの最後は、棺桶に入ったご本人を見つめ、手を合わせるのも私だけということが多くあります。火葬場のすぐ横の窯では親族があつまり涙をすすっているのに、こちらは一人。(え、一人なの・・)という視線をちらちら感じながら、ご本人を思い、焼香をします。

 人間は一人では生きられないとよく言われますが、思いのほか、一人で生きている人は多いという印象です。本当に関係者がいないケース、本当はいるけどみんな遠くに住んでいるケース、本当はいるけど親族から疎外されているケースなどなど。

 これまでの経験で、人間が一人では生きられないかどうかまではわかりません。しかし、少なくとも、私が関与してきたみなさんは、誰かが関与してくれたことを嬉しいと感じているように見えました。

 何かの理由で判断能力が落ちてしまった方が、こんな自分が行くだけで喜んでくれるのです。名前を覚えてくれなくても、見たことのある顔ね~とほほ笑んでくれるのです。また来てねと、手を握ってくれるのです。泣いて「帰らないで」と言われたこともあります。

 もし、自分がこの仕事を引き受けていなかったら・・・。

 あ、そん時は大丈夫、他の司法書士が行くから!
 君の代わりはいくらでもいるから!

 そうですよね(^_^;)
 あまり、いい感じに書いてもしょうがないですしね(^_^;)

 場所によっては無報酬案件とかあるみたいですし・・。発展途上の制度であることは否めませんね。
 でもね、でもね、明日の支援が必要な人もいるわけですし、完璧な制度になるまで私は手を貸しませんというのも違うかなって思うんですよ。

 twitterにいる後見に関与している先生方も同じような思いのはず。なんだかんだ言って義侠心のようなところがあるのではないかと思って見ています。(そうですよね?)

 最後に。
 冗談抜きにこの仕事はやっていて、いい仕事だなって思います。支援者もなく、一人で旅立ったように見えるあの人のことも、こっちのこの人のことも、その人生の最後のひと時を私が覚えています。私が覚えている限り、物理的ではなくても、その人の顔も声も存在しています。
 
 私が死んだら?
 その時は、その人たちのことを思い出してくれる人がいなくなっちゃうかもしれないけど、でも大丈夫、あの世で会えるから。司法書士って結構しつこいから。本人が会いたくなくても会いに行くから。覚えていなくても自己紹介から始めるから。

 自分が会いに行くだけで、関与するだけで喜んでくれる人がいるなんて、そんな経験あまりないじゃないですか。そういう人が1人や2人じゃないんですよ。ときには悩むこともあるし、嫌な思いもするけれど、でも、一緒にやりませんか、この仕事。

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